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人間格付けレース

こんにちは。
私は毎年この時期になるといつも秋の空気を楽しみにしています。
巷でもたびたび話題になる、秋のなんとも言えない情緒に包まれる感覚が好きなんです。
「何」はないけど「何か」に駆り立てられる空気感。思えば高校生の時に受験勉強を始めようとしたのも丁度この時期でした。
まあ、今年はその秋がもしかしたらないのかもしれませんが。

という前置きを残して本題に入ります。

「人間格付けレース」

私が作った言葉です。
要は人間の要素を分解し数値化し、社会の中での立ち位置をできる限り高めていくレースゲームです。
大学生の途中まで私は人間格付けレースに参加するのが当然だと思っていました。
社会で求められるステータスを必死に集めていくことでこのレースに勝利することができます。

詳細は書きませんが大学はMARCHレベルの学校へ進学しました。
私はこの時点で同世代の中の上位10%以上の立ち位置を確保しました。
この先も良い地位を持ったままレースを続行できると思うと幸せでした。


「そんなものは存在しない」

上記した通りのレースゲームは実際にはありません。
私が勝手にあると勘違いしていただけなのです。
いや、正しくは、世間一般で求められているような価値観を無理に自分の内面に落とし込んでいました。
現代日本は学歴社会だとも言われているように、学歴が高いことは正義だと考えていたし、それが社会で恥じないための最低条件かと認識していました。

周りのクラスメイトがそうするように、両親が念押しするように、良い大学へ進むことが自分のレースを助けてくれると誤認していました。
ただの自己肯定感を持つために他人から承認されていないと気が済まないという性分だったのです。


「レースは無数に存在する」

先ほどの項目でレースが存在しないと主張したばかりなのにここでは無数に存在するとは何事だろう。

レースは実際には行われていないが、ヒトの一部、各個人が勝手にレースを主催しているのが正しい認識だと思います。
私は知力・学力部門主催の学歴レースを土俵にして見えない敵と戦ってきました。
が、レースは無数に存在していました。
学歴レース以外にも、持っている資格レース、ゲームの上手さ度レース、彼女のかわいさレース、健康レース、年収レース、顔面偏差値レース、運動神経レース、筋肉レース、おもしろい人間レース、高尚な趣味レース、優しい人間レース、持ってる人脈の凄さレース……。
数えれば恐らくきりがないと思います。参加する人は参加する得体のしれないレースが展開されています。


「レースの結果は人の価値を決めない」

人間の価値=レースの結果ではありません。
『「特定のレース」で先の方にいる自分を評価する』ことは、同時に『「別のレース」にいる順位の低い自分には価値がない』ことを意味します。

自分と他人の能力の差を用いてしか自己肯定感を持てないのか、と言えばそんなことはないはずです。
得意なこともあれば苦手なこともあるのが個性ですから、そんなレースに乗っからずせずとも自己肯定感を持つことができるはずです。
一つ一つのレースで自分の立ち位置を確認して安堵する、そんな生き方は絶対に苦しいです。社会で求められる『自分の価値』とか大層なこと考えないで自分の尺度で自己肯定してください。そこに他人や社会の要望は必要ないはずです。


本当にただ一個人の私見ですが、人間格付けレースに苦しんでいる人が1人でも救われる記事になれば幸いでした。


気合いを入れて書いてみたのですが、内面の価値観を分かりやすい言葉で語るのは難しいなとつくづく実感しました。

それではまた、明日。

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