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サピエンス全史⑵〜「それで人々は幸せになったのか」〜

今回はサピエンス全史の2回目となりますが、これで完結です。書きたいことがたくさんあるのですが、心を鬼にして取捨選択しています。

科学革命

認知革命が生んだ想像上の秩序である「宗教」が支配していた世界に、「科学革命」がもたらした画期的なものってなんだと思いますか?

科学革命は知識の革命であり、それがテクノロジーの進歩をもたらし生産性を高めたというのが一つの答えだと思います。しかし、これは経済的な側面だけに焦点を与えた場合の答えのようです。

ハラリさんによると、「科学革命」は知識の革命ではなく、無知の革命だったとのこと。つまり「科学革命」は、我々は人類にとって最も重要な疑問の数々の答えを知らないという、重大な発見だったということ。

当時の人々、特に宗教家にとって衝撃だったと思います。なぜなら、それまでの世界では私たち人類が知るべき森羅万象は、すべて宗教上の教義に書かれており、知らないものなどないと考えられていました。その教義とは、聖書やクルアーン、ベェーダ、儒教の権威ある書物などであり、それは数式や化学式ではなく、物語として提示されていました。

「科学革命」がなければ、身の回りに絶えず発生する課題解決は、科学的アプローチではなく教義に書かれた意味不明な言葉を権威者が勝手に、場合によっては自身に都合の良いように解釈した方法によってなされていたと思います。病気になっても呪術によって得体の知れない液体を飲まされるなど悲惨な状況が今も続いていたはずです。恐ろしいですね。

「科学革命」によって、自然科学への理解が深まり、その基礎理論を応用したテクノロジーの進歩が、人類を大きく発展させたことについては説明不要と思います。ただし、ここで一つ疑問が生じます。

「科学革命」後においても宗教はなぜ存続し続けたのか?

宗教、科学、資本主義の三角関係

ハラリさんによれば、たとえば(極端にいうと)科学者にとって死は避けようのない「宿命」ではなく、単なる「技術上の問題」とのこと。つまり、人間が死ぬのは神々がそう定めたからではなく、心臓発作や癌、感染症など技術上の不具合のせいであり、これらには技術的な解決策がある。

このような科学の捉え方は人類の発展に大きく貢献しますが、一方で人類を破滅に導いたり、人の尊厳を蔑ろにする可能性も秘めています。

このことは、科学というものは、それ自身の発見・発明が人類にもたらす影響を評価できず(そのことすら自覚しておらず)、暴走する可能性があることを意味しますが、ここにこそ宗教の必要性が認められたことから「科学革命」以降も宗教が存在し続けることができたとのこと。

ハラリさんによると、「科学」にはがあるが、それ自身では秩序を維持することは困難である。「科学」は自らの優先順位を設定できず、また自らが発見・発明した真理・技術をどうするかも決められない。したがって「宗教」が倫理的判断を提供することによって、これらの実社会での実装法を規定してきたようです。

個々で見ると聖職者と科学者はともに異なる真理を求め、その結果争いになることもあるが、集団として見ると「宗教」は秩序に、「科学」はに関心を持つ。このため真理とは何かという争いは起きず、むしろ両者は妥協し合い、秩序のバランスを図るという点で相性がいいことが、それを可能にした。

ここで人類の発展には上限があることを思い出す必要があります。地球上の物質の総量は常に一定であり、あたかもゼロサムゲームのようだからです。富の総量は減少するとは言わないまでも、限られていると信じられていました。パイの切り方はいろいろあっても、パイ全体が大きくなることは決してあり得ないと。。

ここで認知革命が生んだもう一つ想像上の秩序である「貨幣」とその副産物である「信用(クレジット)」をベースに生まれた「資本主義」という経済秩序が大きな力となります。

「資本主義」は獲得した利益を、基本的には再投資するという循環を繰り返すことで経済成長を志向します。この再投資先を「科学」にすることで、科学者たちが何年かおきに新たな発見をしたり、斬新な装置を考案することができ、その結果、パイ全体を大きくし経済成長が可能になりました。

ハラリさんが主張するように、紙幣(貨幣)を発行するのは中央銀行(政府)ですが、結局のところ、それに見合った価値を生み出すのは科学者なんですね。

「宗教」・「科学」・「資本主義」の三角関係によって人類は発展してきましたという話でした。

ところで、宗教は日本人に馴染みが薄いように感じますが、かつて日本は最先端の科学技術を武器に経済発展しました。その時に秩序を与えたのは一体なんなんでしょうね。何が秩序を与えたかによって社会の価値観が形成されると思いますが、やっぱり日本の場合は「武士道」ですかね。

それで人々は幸せになったのか

20世紀には不幸な大戦があったにせよ、経済成長によって飢饉・病原菌・暴力で亡くなる人々の数は減少していると思います。しかし、経済成長を支えてきた「資本主義」は万能ではないことは現代に生きる我々は理解できます。

行き過ぎと言われる自由主義を前提とした資本主義経済が地球環境を破壊していることが人類の将来に危機を招いており、これに加え、「寿命の伸び」と「テクノロジーの目覚ましい進歩」の2つが個々の人々にも大きなストレスを与えています。

「農業革命」、「認知革命」、「科学革命」の3つの重要な革命を通じてホモ・サピエンスは発展してきましたが、「ところで人々は幸せになったのか?」と本書でハウルさんは問いかけています。

シンプルな問いですが、とても考えさせられました。

ハウルさんは本書によって人類の歴史を現代まで追っていますが、次の著書である「ホモ・デウス」では人類のこれからについて書いています。その内容はユートピアというよりもディストピアです。

欧米諸国、日本などが採用する民主主義と資本主義のパッケージは、自由主義を前提にしています。ハラリさんは、その「自由」が幻想ではないか?あるいは自分以外の第三者によってコントロール可能となるのではないか?という視点で未来を想像しています。

いずれ「ホモ・デウス」についても私の感想を書きたいと思います。

今回も最後までお読み頂きありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

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