ノーモアお察しトーク

職場の人と会話していたとき、突然、自分がもう相手の期待通りに発言しようとしていないことに気が付いた。

長い間、私にとって会話とはいわゆるギャルゲー(※キャラクターと恋愛関係になれるようにセリフを選ぶシミュレーションゲーム)のように
「正解」のセリフを察知してできるだけそれに沿った動き、表情、イントネーションで発音するというゲームであった。
言葉に意味があるということを知り、コミュニケーションの意義を知り、
心許せるパートナーとのタメ口の会話では思ったことを言えるようになっても、
目上の人との敬語の会話は、依然としていかに正解に近づけられるかというゲームであり続けていて
敬語を使いながら意味のやりとりをすることはとても難しかった。
それは多分、条件付けのようなものだったんだと思う。

すこし前にこの菊池とおこさんのnoteを読んだとき、とても驚いた(DVの記事です)。私じゃん!!「元夫」を「母」「男の人」を「女の人」に替えればだいたい私の育った環境になる。
「モラハラ家庭」というやつだったんだろう。幼少期からひたすら母親のお気持ちを察することを求め続けられた結果、立派なお察しマシーンに育ってしまったというわけだ。

全然穏健でない性格かつ態度がでかいくせに、敬語になった瞬間に良い子発言を繰り返す人間はさぞかし不気味だったと思う。そんな言行不一致マンに辛抱強く考えるチャンスを与え続けてくれた上司には感謝しかない。

さて。
「お察し」をやめた自分に気づいた瞬間、私は激しく動揺した。
今私、相手がどう思うかじゃなくて、内容だけを考えて喋ってる!敬語で!!!
相手が怖くない、ということが、なんか怖かった。
もう大丈夫だと感じているということが、なんだかとても怖かった。

これまで「身内」というものは私にとって一番の恐怖の源で、ずっとそういう前提で生きてきて、ソトの人間にどんなに迷惑をかけても、不義理をしても、母親の予想を裏切ってはいけなかった。
例えば「え、、?土曜日ってどっか行くの?」と少しでもネガティブなお気持ちを声ににじませられたら、「ううん!何にもないよ!」と笑顔で答えて友達との約束を自主的にドタキャンした。忖度というやつだ。
だって私の生殺与奪を握っているのは親であって友達ではない。
そんなのは5歳ぐらいになれば普通にわかる常識だ。

それが、いきなりルールが変わったのだ。身内には甘えていいけど、他人には迷惑をかけるな、に。実家を出てから10年ぐらい迷走したあげく、この間やっとそのことを理解して、私は震えた。
理由は2つある。

まず、いつでもどこでもどんな場面でも、私の言葉は私の物なのだ。
女の子にふられるのはギャルゲーの脚本家が素敵なセリフを用意しなかったからじゃない。100%私がイケてないからなのである。
いわゆる責任というやつだ。
これはもう、慣れるしかないし大人だからしょうがない。これが自立ってやつなんだと思う。多分。とても怖いものですね…。
怖いけど、きっと観察するものが「相手の表情や息遣い」から「事実」に替わるだけだ。単純にそれだけだから大丈夫。観察するのは得意だからね。

2つめは「協力」コマンドを使いこなせるかという懸念。
これからは身内は一番最初に息の根を止めないといけない相手ではなく協力する相手だということになる。定型のアラサーが幼稚園のおままごとから始まって何十年(だいたい25年ぐらい)も磨いてきた「味方と協力する」という技を、私はこれから覚えないといかんのだ。
正直なところ具体的に何すりゃいいんだかさっぱりわからない。
そもそも味方って何してくれるんだ?
どこまで情報を公開していいのか。
どこまで本当のことを言えばいいのか。
相手の言ったことは本当だと思っていいのか。
というふうに、わからないことしかない。
しかしまあ、これまで忖度に使っていたエネルギーを節約できるし、人間はリラックスしてると色々なことが考えられるから、多分状況は良くなるんだと思う。

「いつか後ろから刺される!」って思いながらびくびく生きてたけど(ただし態度はでかい)、もしかしたら後ろから刺されることは、もうないのかも。周りの人は基本的に味方である可能性が高いんだものね。
これまでに何度もお医者さんやカウンセラーの先生に言われた言葉が少し腑に落ちて、会議室からの帰りの廊下は、いつもより少しだけ空気がおいしい気がした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?