終戦の日

年度末なので、職場で今年度の成果発表会があった。体育館みたいなとこで、壁にポスターを貼って説明をする。結構大きい団体なので、私はこれまで直属の上司以外の人とあまりしゃべったことがなくって、「社会人のおじさん・おばさんたち」はなんとなく怖かった。

子供のころ、何回もお母さんに言われていた。社会では常識が必要なんだって。常識から外れたことをしたら罰を受けるんだって。社会では優しい穏やかな人はほとんどいなくって、お母さんみたいなのがマジョリティなんだって。私は常識がなくて、何回言っても努力しないし何もできないから、怒鳴られるんだって。

上司から、発表会では怖いおじさんたちが質問にくるから、正解をちゃんと言えるようにしておいてね、というようなことを冗談めかして言われて、母の言葉がよみがえった。

もし、少しでも間違えたら、とんでもないことが起こるような気がしていた。相手の想定からわずかでもはみ出たら即座に居場所がなくなったり、人格が否定されて、怒声が飛んでくるような気がしていた。お母さんが、そうだったみたいに。

結構頑張って作った私のポスターは、印刷してみたら図がちょっとずれてたり、追加で貼った紙を切るときに歪んじゃったりして、横に立っててそれらが目に入るたびに、身体がこわばった。

でも、聞きに来てくれた「怖い」おじさんやおばさん、お兄さんやお姉さんは、私の拙い説明を聞いて、一生懸命理解しようとしてくれた。噛んじゃったり、相手の質問の意図が分からなかったり、明らかにうまく伝わらなかったというときでも、飛んでくるのは罵声ではなく、なんとか内容を把握しようとするための、冷静な質問だった。

大事なのは内容とか、私の考えたこと。ちょっと紙が曲がってるとか、説明で噛んだとか、そういうくそしょうもないことで、怒鳴られたり、嫌味を言われたり、お前は本当にだめなやつだなと言われたりすることはなかった。

もちろんしかめっ面を崩さず厳しい指摘をくださる方もあったけれどそれは本当に発表内容に対する完全に真っ当な指摘で、予想していた、ルールからはみ出たからタコ殴りにされるみたいな感じでは全然なくて。正直、めちゃくちゃ、拍子抜けした。

こんなんでいいのか。これが社会か。

気が付いたら全然緊張していなくって、久しぶりに人と喋るときに安心していた。怖くなかった。

終わったあと上司が、怖い顔の人はいつもあんな感じだからと言った。「社会」ではあんなので怖いってことになるのか。殺されるような剣幕で怒鳴られ続けるわけでもない。存在や人格を否定されるわけでもない。

みんなが帰ったオフィスで、しばらく一人でぼーっとして、ああ、そうか。終わったんだ、と唐突に思った。

もうあんな扱いをされることはないんだ。私、洗脳されてたんだ。お母さんの言ってた「社会」は、都合よく支配するための嘘だったんだ。本当はもうあんな風に、怖い思いをすることはないんだ。今いる「社会」は、優しくて、理不尽じゃない、安全なところなんだ。

帰り道、そのことがゆっくり体にしみこんできて、ここは安全だということをようやく全身で理解した。

終わったんだ。もう大丈夫だ。闘争も逃走もしなくていい。怖かったなあ。怖かったよう。

緊張がゆるんだらすごい勢いで涙が出てきて、家に帰るまで泣き続けて、帰ってからもわんわん泣いた。

朝起きたら、目がすごい腫れてて、ひどかった肩こりがなくなっていた。終戦翌日の空は、雲のない晴れた青空だった。

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