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黒焦げのたまねぎ

暗闇をサイレンが切り裂いて、飛び起きた。
夫を見るとやはり緊張の面持ちで、身体を起こしている。
夫の寝巻きの腰には、静子が抱きついていた。
おかっぱの髪に隠れて表情は見えないけれど、不安なのだろう。
そう思って視線を下ろすと、幸子は枕の下に片手を突っ込んだまま、すやすやと眠っている。
緊急時だというのに、思わず微笑んでしまう。
この子は強い。

聞き覚えのあるエンジン音が迫ってきていた。
これは、あの時と同じ。
東京がひと晩で焼け野原になった、あの夜と。
逃げなければ。

暗闇のなか枕元に用意してあった服に急いで着替え、幸子を抱き起こす。
足の悪い祖母を夫がおぶい、私は寝ぼけた幸子を背中にくくりつけ、静子の手を引いて家を出た。
もう何度目だろう。
なぜ、こんな目に遭うんだろう。

 

 

私は静岡で生まれ育った。
父は地元でバス会社を経営していて、読書家で教育熱心で穏やかな男だった。
明治の男にしては珍しく、私が幼いころから「これからは女性も男性と同じように学び、社会に出ていくべきだ」と言っていて、休みの日には縁側に腰かけ、英字新聞を広げて読んでいた。

幼い頃、誰かの祝言で親戚が集まるようなときは、女はみんな五つ紋の黒い留袖を着て、自分の髪で時代劇のカツラのような髷(まげ)を結っていた。このあいだ、鵠沼の叔父が撮ったその時の集合写真を見せたら、孫は心底おどろいた顔をしていたけれど、そういう時代の話だ。
もし他所の家に生まれていたら、ひとり娘の私は養子をとって父の会社を継ぐことになっていただろう。
でも、両親は私にそれを求めなかった。
高等女学校を卒業後、私は中目黒の伯父を頼って、昭和女子薬学専門学校に進学した。

幼い頃から父に連れられて東京と静岡を行き来してはいたけれど、東京に住んでみると、それはそれは刺激的で楽しかった。
景気のいい時代だったこともあるだろうけど、浅草はとりわけ活気があってわくわくした。
にぎやかな仲見世は彩り豊かで心踊ったし、一本裏へ入ると、朝顔の咲く簾の向こうからお三味線や長唄の稽古が聞こえてきて、思わず立ち止まり聞き入ってしまう。

卒業後も静岡へは帰らず、私は東京帝大の医科大学薬学科に就職して、そこで出会った年下の男子学生と恋に落ちた。
榮太樓の梅ぼ志飴のような、あまく透きとおった可愛らしい恋。
親が決めた、ほとんど会ったこともない男性と結婚するのが当たり前だった時代、親元を離れて暮らしていた私たちは、本当に自由だったと思う。
恋人はほどなく三井化学研究所の研究員となり、私たちは鷹番で所帯をもった。

ふたりの娘に恵まれて順風満帆な新婚生活だったけれど、やがて戦争が進むにつれ、夫の仕事には陸軍の機密事項が増えていったし、東京には食べるものが無くなっていった。
静子は5歳、幸子は3歳。
自分は食べなくてもいい。とにかく、娘たちに食べさせなければ。
配給なんて、ほんのわずか。
母が持たせてくれた着物を、米に換えた。

 

 

3月になると頻繁に空襲のサイレンが鳴るようになって、何度も何度も、こども達を連れて裏の神社の防空壕へ逃げ込んだ。
あの夜、エンジン音が地鳴りのように響き、飛行機が去るのを待って壕から出たときに見た空の色を、今でも良く覚えている。
北東の空が、真っ赤になっていた。
夜が明ける頃には、日本橋や浅草を焼け出された煤だらけの人たちが歩いて逃げてきていて、すっかり浅草が焼けてしまったと聞いた。

もう、ここに居てはいけない。
ずっと避けてきたけれど心を決め、夫を残し、こども達を連れて静岡へ疎開した。
食べ物に換えるため、ありったけの着物を風呂敷で背中に括り付け、静子と幸子の手を引いて。

あの時の判断は、母親として正しかったと思う。
その証拠に、1か月後の空襲で、鷹番の家も中目黒の伯父の家も夫の職場も、すべて焼けてしまった。
焼け出されて静岡へきた夫と会えたのは、それから10日後のことだ。
私たちは、足が弱っていた祖母が住む離れに身を寄せた。

東京には食料を根こそぎ食らう鬼でも棲んでいたのかと思うほどに、静岡には物資があった。
着物を持っていくと、近所の人は喜んで食べ物に換えてくれたから、こども達におなかいっぱい食べさせてやることができて、うれしかった。
配給だから米はなかったけれど、みかんだけは売るほどあって、好きなだけ食べられる。
でも、そんな暮らしもつかの間、静岡にもB-29はやってきた。
軍需工場への昼間の爆撃、一般人への機銃掃射、夜中の爆撃が繰り返され、静子はだんだん言葉少なくなっていった。

 

 

あの晩のことは、生涯忘れないだろう。
サイレンに飛び起きてから、祖母とこども達を背負って夫と家を出るまでには、きっと5分もかからなかったと思う。
東京のあれを見た時から、命からがら逃げてきた夫の話を聞いた時から、覚悟はしていた。

あの低く重いエンジン音は、人を殺しに来る音なのだ。
でも、東京の時とは音が違う。
音が近い。
それに加えて、ジャァァーッ、ジャァァーッと、異様な轟音が鳴り響いている。

外へ出ると熱風が頬を包み、きらきらと輝く光のスジが、雨のように降り注いでいるのが見えた。
夜中なのにひどく明るくて、既に火の手が上がっている。
異様な音とともに降っているのは、最近よく聞く油の入った焼夷弾なんだと、瞬時に理解した。

燃えさかる家々のあいだを、祖母を背負った夫とはぐれないよう、静子の手を引きながら懸命に歩いて逃げた。
火の粉が降りかかり、焼け崩れた柱が倒れてくる。
落ちた爆弾の破片が、前を走る人の頭を真っ二つに割る。
着物に火が燃えうつり、転げまわる人の横を逃げる。
熱風、血潮、悲鳴、怒号、轟音。
息ができない。
阿鼻叫喚とは、このことか。

そのうち、最初は泣いていた背中の幸子が、いつの間にか静かになっていることに気づいて、ハッとした。
もしも背中で死んでいたら・・・と思うと気が気じゃなかったが、立ち止まることも、幸子を背中から下ろして確認することもできない。

どれだけ歩いたことだろう。
私たちは安倍川の土手に上がった。
既に川原は逃げてきた人でいっぱいで、休む場所すらないほどだった。
多くの人が水を求めて川に入っていて、その上にも容赦なく火の雨が降り注いだ。
安全な場所などなかった。
でも、もう逃げる場所がない。

夫は祖母をそっと下ろし、私もいったん静子の手を離して、幸子を背中から下ろした。
じっとりと汗が染みた背中に、風を感じる。
街は白い煙を上げながら、真っ赤に燃え続けていた。
父と母が榛原の親類の家に行っていたのは、不幸中の幸いだった。
逃げるのが7人だったら、逃げ切れていなかったかもしれない。
榛原も空襲があったのだろうか。父と母は・・・。
ふと幸子が「きれいねぇ。おかあしゃん」と言った。
目を落とすと、幸子は赤く染まる空を指さしている。
何も言わずに歩いてきた静子は、私のモンペに顔をうずめ、声を殺して泣いた。

 

5人で赤い空を眺めているうちに、だんだん煙は黒くなっていった。
夜が明けて、変わり果てた街が姿を現す。
川原には、黒焦げの遺体がひっきりなしに運び込まれてくる。
こども達に水を飲ませようにも、川面には人がおり重なっている。
しかたがなく、家に向かって歩き出した。

焼け焦げた肉の臭いに、胃液が上がってくる。
そこらじゅうに、うっかり焦がしたイワシのような真っ黒な人間や焼夷弾やガラスの破片が転がっていて、焼け崩れた家からはまだ煙が上がっていた。
すれ違う人はみな、何も映していないような目をしている。
5人とも無口だった。
逃げるときは夢中で感じなかったけれど、からだが鉛のように重かった。

 

家に着くと、母屋もはなれも焼け落ちて、漆喰の土蔵だけが残っている。
かんぬきを外して開けてみると、蔵の中の物がすべて炭化していて驚いた。
中身だけ焼けるだなんて。

力が抜けて、思わず座り込むと、側溝を流れる水が目に入った。
田んぼのための用水はキラキラと光っていて、夢中で掬って飲んだ。
こども達を呼んで、いっしょに飲む。
澄んだ水が、身体のすみずみにしみわたる気がした。

そのとき、地面に転がる真っ黒な球が目に入った。
軒先に吊るしてあった、たまねぎだった。
黒焦げになった皮を剥いてみると、中から半透明の白いたまねぎが顔を出す。
まだ、ほんのり温かかった。

剥いたたまねぎを静子に渡すと、静子はそれを幸子の口もとへと運んだ。
「いいんだよ、静子。ちゃんと、みんなの分あるから」
泣きごとも言わず歩き続けた5歳の静子に、最初に食べさせてやりたかった。
たまねぎがみんなに行きわたると、私もかぶりついた。
うまい。
甘くて、ジューシーで、美味しくて・・・涙が出た。

たまねぎと側溝の水が、その日のごちそうだった。

 

 

「東京でも空襲にあって、静岡でも空襲にあって、おばあちゃん達それからどうしたの? おうち燃えちゃったんでしょう?」

あの頃の静子よりもずっと年上の、6年生になった曾孫が、目をまぁるくして尋ねる。

「それからはね、おばあちゃんの親戚とおじいちゃんの親戚に少しずつお世話になってね。最後はおじいちゃんのお母さんのお兄さんの家に行ってね。ひとつの家に4家族もいたの。私たちは、そこで終戦の日をむかえたのよ。あんたのおばあちゃんが生まれるのは、まだそれから2年も後の話だけどね」

 

話さなかったけれど、曾孫の祖母にあたる3人目の子が生まれる直前、静子は道路の真ん中を走る路面電車から下車した瞬間にトラックに轢かれ、死んだ。
即死だったら・・・と、今でも思う。
小学1年生だった静子を背負い、家の近くの大きな病院へ運んだけれど、まだその頃は腕や脚を無くした復員兵でいっぱいで、どこもちぎれていない静子はなかなか診てもらえなかった。
戦争は終わったのに。
もう終わっていたのに。
私の背中で、静子は「だんだん見えなくなってきた」と言った。
それが、最期の言葉だった。
痛かったろう。苦しかったろう。
私は、何もしてやれなかった。

 

ずっと、あの空襲で見た光景は、誰にも言わずに生きてきた。
言えなかったのだと思う。
幼かったこども達の記憶の深いどこかに焼き付いているだろう、この世のものとは思えない景色。

曾孫が夏休みの宿題だからと、戦争体験のインタビューに来た。
聞いた話をまとめて、発表するのだという。
むごい話だ。
ひもじくて、悲惨で、つらくて、痛い話ばかりだ。
きっと、今の子は聞いてビックリするだろう。

でも、聞いてくれてよかった。
夫も13年も前に召されてしまって、誰もしゃべることなんてできない。
幸子だって、3歳だったんだ。
話せるようなことは、何も覚えてないだろう。
黒焦げのたまねぎの甘さも、流した涙のしょっぱさも。

語らなきゃいけないよね。
私の記憶。
きっともうすぐ、伝えることはできなくなってしまうだろうから。
聞いてくれて、ありがとう。

世界では、まだまだ戦争をしている国がある。
日常が、家が、友だちが、家族が、身体が、未来が、突然奪われる。
そんなことが、今も海の向こうで起きている。

あなた達の未来に、二度とこういうことが起きませんように。
切に祈る。

 

  

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田中泰延さんが書いたヒロシマ。
読んでください。知ってください。
私の祖父母がまだ20代だった頃の、日本のこと。

ここまで読んでくれたんですね! ありがとう!