冬の足音
鼻唄を歌っている自分に気づいて、驚いた。
そもそも毎日厨房に立っているし、食事は昼も夜もまかないなので、自宅ではほとんど料理はしない。
彼が来るとき以外は。
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キッチンは、バターと玉ねぎの甘い香りに満ちている。
職場と違ってドミグラスソースはないから、家で作るときは、ハインツの特選デミ缶を使うことにしている。あの人好みの味を思い浮かべながら、加える手間を考える。
もう少しだけ色味が濃くなったら、赤ワインを入れよう。
シャトーにした人参とジャガイモは美しく、ことこと火を入れた牛モモ肉はもう柔らかい。先に仕上げた林檎のコンポートは、ステンレスの小鍋のまま冷蔵庫で出番を待っている。
鍋底を木べらでかき混ぜていると、働き始めたばかりの頃を思い出す。
大阪の調理専門学校で学んだあと、私は神戸の老舗ホテルに就職した。自宅から通える大阪市内に就職すると思い込んでいた奈良の両親はがっかりしたけれど、私には夢があった。お客さんの笑顔があふれて、料理が楽しい会話のお手伝いになるような、ぬくもりのあるレストラン。
厳しい世界だけれど、ここで学んで、いつか自分の店を持つ。そう決めていた。
そのために選んだ道だった。
研修後に提出した希望どおり、私は洋食部門に配属になり、来る日も来る日も野菜を洗って下ごしらえに臨んだ。
丁寧に学んできたはずだったのに、シャトーの形ひとつとってもダメ出しだらけで、心が折れそうだった。
そんな頃、電話をくれたのが高校の同級生だった彼だ。
卒業後、麻布の老舗イタリアンに就職した彼も、厳しい先輩たちの指導に耐えながら必死に学んでいた。
互いに実家を離れて、修行する毎日。戦場のような営業時間が終わると、仕込みの時間が始まる。新人が家に帰りつくのはいつも深夜で、泣きながら電話で語り合う夜もあった。
新人が2日間の連休を彼に合わせて取れたのは、卒業から半年が経った9月のこと。中間地点の名古屋で待ち合わせた夜、私たちは始まった。
あれから、5年。
私は相変わらずホテル勤めをしながら神戸でひとり暮らし、彼は1年前に大阪に帰ってきて、居酒屋で働きながら開店資金を貯めている。
てぃんろん
静かな通知が、その朝の目覚ましだった。
枕元のスマホに手を伸ばすと、冷たい空気が毛布のすき間に滑り込む。
フローリングに伸びた白い光のすじを見て、昨夜窓を揺らしていた風が、雪を運んできたことを知る。
どうりで肩が寒いはずだ。
LINEを開けてみる。
寝る前には降ってなかったのに、こんなに積もってるのかと驚いた。大阪で、しかも初雪が積もるなんて、珍しい。
あの彼が、雪を見て私に話しかけたくなって写真を撮ったんだろうか・・・と思うと、何だか可愛らしい。
おはようのあいさつを打ちながら、頬がゆるむ。
つい、ニヤついてしまう。
ずるいなぁ。どんな顔をして打ってるんだろう。
そんなこと言われたら、作るに決まってる。
そうだ、買い物行かなくちゃ。冷蔵庫は空っぽに近い。人参とジャガイモはあるけど、セロリと牛肉が要る。玉ねぎも足りないや。デザートは・・・。それに、チーズも買おう。今夜は、赤ワインだもの。
そんな理由? どういうこと?
心臓が、ぎゅんと音を立てた。胸が痛い。
「そんな理由じゃ・・・ダメかな」
初めて名古屋で会う約束をした晩も、彼は同じ言葉を口にした。
普段は早口の大阪弁で周りを盛り上げているくせに、こういうときだけ、ぼそっと低い声で言葉を置く。
何か大切な、話があるんだ。きっと。
文字を見ただけで、彼の声が、香りが、温かい手の感触がよみがえる。
ひとりで照れるのは悔しいから、ふざけたスタンプを探す。
ざっと掃除を済ませて近所のスーパーに走り、ビゴの店でバゲットを仕入れて、準備を始める。
好みを知りつくしたお客様のために、手間ひまかけて作る料理。
なんて贅沢で、楽しい時間なんだろう。
今ごろ彼は、雪のなかワインを仕入れに行っているに違いない。
何も打ち合わせてはいないけれど、私好みのミディアムボディをセレクトしてくるはず。だから、チーズはラクレットにした。
デミグラスを合わせた鍋をとろ火にかけ、グラスを磨く。
堀くんの大切な話は、何だろう。
ピンポーン
インターホンの画面いっぱいに、シャトー・ラネッサンのラベルが映し出されて、相変わらずの照れ隠しに、心がおどる。
ドアを開けると、彼はいきなり私を抱きすくめ、低い声で言った。
「佑子、今夜、泊ってもええかな。大切な話があるんや」
コートのポケットの感触には、気付かなかったことにした。
このつぶやきのコメント欄から生まれた物語です。
実はこっそり、リレー小説『不確かな約束』のスピンオフ作品になるよう仕立ててあります。
大阪編でシュウが出会った、堀さんとユウコさんというご夫妻の物語。
堀さんは、このリレー小説のなかでも人気キャラクターでした。私も好きだったなぁ。堀さんがユウコさんと開いたイタリアンのお店に、行ってみたかったです。
堀さんのその後を読みたいかたは、こちら ↓
最初から読みたいかたは、こちら ↓