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雪とトグルと絆創膏


 いま思えば、あの場所で感じた夢のようなひとときは、きわめて不適切だったのかもしれない。

 思い出のなかのハルは、キャメル色の重いダッフルコートを着ている。あの日はたしかに寒かった。2月も半ばを過ぎていたのに、ステンドグラスには雪の影がちらついていたのだから。

 

 

「今年最後の雪かもしれないね」なんてどうでもいいことを話しながら並んで歩いた。耳がちぎれそうに痛いけれど、足取りは軽い。向かったのは日曜礼拝のお昼の定番、オールディーズのかかる真っ赤なカウンターのアメリカンダイナーだった。

 

 ティン・・・と かすかに金属のやわらかな音が鳴る。
「ねぇ、煙草吸ってもいいかな」とハルは物憂げにつぶやいて、わたしの返事なんか待たずに煙草に火をつけた。一瞬、オイルの匂いがして、煙草をはさむ長い指に前髪がかかる。ハルのまつ毛はうらやましいほど濃くて長い。

 あの頃はまだ、飲食店のほとんどのテーブルには灰皿が置いてあった。今は1箱 560円もするらしい LUCKY STRIKE は、当時 300円。時任三郎は24時間戦っていたし、禁煙はパイポを吸うおじさんの合い言葉で、愛煙家の裏切り行為でしかなかった。
 大学入試を終えたばかりのわたしは、煙草を吸ったこともなければお屠蘇以外のお酒を飲んだこともない。きびしい部活に明け暮れて、誰かとお付き合いしたことすらなかった。

「先生に見つかったらヤバくない? 停学だよ」と言ったわたしをハルはまっすぐに見て、鼻で笑った。
「だったら、なに? 停学でもなんにでもすればいい」
 ざらりとした声でそう言うと、ハルは細長い煙を吐いた。清潔感のある指先でZIPPOのフタをもてあそぶ。

「先輩さぁ、真面目ないい子ちゃんだよね。そういうとこ、かわいいね、セ・ン・パ・イ」
 おちょくられたわたしはグラスの水を煽り、盛大にむせた。

 

 カリッカリに焼かれた大きなバンズに分厚いパティとレタスの緑、熟れたトマトが食欲をそそる。濃厚なチーズは皿までだらしなくとろけて、店のロゴを半分覆っていた。
 ハルはハインツのケチャップとマスタードを豪快に足し、バーガー袋に入れて喰らいつく。こんなふうにいられたら楽だろうなって思いながら、わたしはフォークとナイフを手にした。ここのジンジャエールは甘すぎなくて爽やかな香りがする。そして、舌が痛い。

 

 

「CD屋さんに寄ろうよ」って言ったのは、わざと遠回りしたかったからかもしれない。午後の青年会は始まってるけれど、もう少しだけハルと歩きたかった。

 透きとおった歌声が飛び込んできて、思わずサビに合わせてハミングする。ドラマは見ていなくても、もちろん東京ラブストーリーのあの曲は知っていた。特設コーナーに貼られた切り抜きの鈴木保奈美と目が合う。ハルは店員さんをつかまえて、Stevie Bのアルバムを探していた。

 

 結局、教会に戻ったときには青年会は終わっていた。集会室をのぞくと、牧師見習いの松本さんと学くんが何やら真剣な表情で話しこんでいる。階段を上がって礼拝堂へいくと、誰もいない。
 ここはよそのプロテスタント教会に比べると天井が高くて、ヒールの音が硬く響く。一番うしろの真ん中、通路脇の席にわたしは座った。

「先輩、バンドエイド持ってる?」
「持ってるよ。どうしたの?」
 ポーチから出したそれを礼を言って受け取ると、ハルは重い足音を響かせながら最前列まで進み、腰をおろした。
「靴ずれしたんだ。さっきから痛くてさ」とハルはブーツを脱いだ。今朝、会った瞬間に気づいていた。高校生にはお高い Dr.Martens の1460エイトホール。三越で手にとってしげしげと眺めてたのを覚えている。

 いつから痛かったのか尋ねたけれどそれには答えず「あーぁ、靴下よごれちった」と言い、「このブーツね、1460っていう名前なんだ。1960年の4月1日に生産ラインにのったから、この名前になったんだって」なんて、尋ねてもいないウンチクを傾ける。
 知ってたよ。言わないけど。

 

 

「ねー先輩、歌ってよ」と、ハルが前を向いたまま言った。
「何を?」
「Ombra mai fu」
「なんて言った?」
「オンブラ・マイ・フ!」
「えー。アカペラで? 賛美歌じゃなくて?」
「昔、音楽室で歌ってたじゃん。ニッカウヰスキー」
「あのときは音楽の実技テストだったから、ジュンジュンと練習してただけだよ」
「歌ってよ」
「やだよ」
「ねー聴きたいー。歌え」

 

 観念して、わたしは言った。
「そっち向いたまんまでいてよ。恥ずかしいから」

 わたしはそっと立ち上がってゆっくり息を吸い込んだ。真面目に立って歌おうとしていることを悟られたくなかった。
 心臓の音が鼓膜をふるわせる。白い息。声が身体をとおって出ていく。ハルの視線のさき、祭壇の壁にかかげられた十字架の、その向こうにむかって。
 先生の声が脳裏をかすめる。もっとカラダ使えーっ!! まだ揺らすなよ。横隔膜下げて、キープ!

 ビブラートをおさえた響きが、がらんとした礼拝堂を満たしていく。オルガンのパイプがかすかに共鳴するのを感じると、耳の奥の鼓動が消えた。声は、響きの尾を残しながら空間にゆっくり溶けて消えた。

 

 

「ねぇ、あの頃さ、なんで僕のこと見てたの?」
 前を向いたままでハルは言った。礼拝堂に声が響いて、やがて消える。ハルは続けた。
「僕のこと見てたでしょ? 音楽室から。窓際の手すりにもたれて、よく先輩はこっち見てた。勘違いじゃないよね?」

 大きく息を吸ったら、答えはため息まじりになった。
「見てたよ。テニス、上手だなぁって眺めてた。特に谷原と練習してるのが好きだったな。ふたりともうまくて見とれちゃう」
 ことばは、ふたりの間に寄るべなく浮かんだまま。

 

「・・・それだけ?」


 もう、それ以上聞かないでほしい。
 わたしは2週間後に卒業するんだから。
 あの音楽室からハルを眺めることだって、もうできないんだから。

 

 

 立ち上がったハルが通路を歩いてくる。響く足音。息が詰まる。目がそらせない。

 ハルが身体を傾けた瞬間、ダッフルコートのトグルボタンが目の前で大きく揺れて、気づいたら冷たい何かが、わたしのくちびるをついばんでいた。
 そのうすい舌がくちびるの間を縫うようにかすめた瞬間、あまい痺れのようなものが下腹部にひろがって、たじろいだ。
 はじめて自覚した、鮮烈な快感だった。

 

 それはほんの一瞬のできごとで、ハルはそのまま何も言わずに礼拝堂を出ていき、そこには あわく ほろ苦い柑橘の香りだけが残った。階段を降りていくハルの重い足音を聞きながら、追いかけるべきか否か、とっちらかった頭で考えた。

 

 

 なぜあのタイミングでキスしたんだろう。これからどうするつもりなんだろう。ハルはわたしを想ってるんだろうか。わたしは・・・。
 わたしは・・・?

 

 ハルが押し開けた扉から、雪の大通りの音が教会へなだれ込む。

 

 わたしは階段を駆け下りた。

 

 

 

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