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いとおしい香り

さく、さく、さく・・・と髪が落ちていく。
さらさらと風が頬をなで、ハナミズキが綿雪のように舞い落ちる。
足もとの木漏れ日が揺れて、とろりと眠くなってしまう。
こんな風に髪を切ってもらうだなんて、こどもの時以来だ。

◎ ○ ◎ ○ ◎

私が肺腺がんと診断されたその日に、夫は煙草をやめた。
それから2年以上経った今でも、彼はサイドボードに置きっぱなしにしてある煙草に手を伸ばさない。
若い頃から、何度となく禁煙に失敗してきたし、娘たちがどれだけ意見しても「煙草やめるくらいなら、死んだほうがマシだ」なんて言い訳にならない言い訳をして、決して止められなかったのに。

その日から、とにかく私に負担をかけまいと、夫は家事全般を引き受けるようになった。
料理はもともと得意で何を作ってもらっても美味しいし、そもそも私よりも綺麗好き。大阪・名古屋・東京、合わせて5年の単身赴任中は何もかもを自分でしていたから、彼は何だってできる。
それは解っているけれど、普段の家事は私の仕事だったのに。

加えて、私が行くとこ行くとこ、すべてを送り迎えしようとする。
私はまだまだ運転できるし、区民文化センターの水彩画教室が終わったあと、みんなでランチしたいときだってあるのに。
ちょっと私に過保護なんじゃない?

 

手術を無事に乗り切ったあともそれは続いていたし、この春からの感染症騒ぎが、それに輪をかけた。
片肺を1/3切除していることを考えれば、リスクを避けるべきであることは、私だって重々承知している。
まぁ、心配する気持ちは解っているから文句は言わないけれど、電話をかけてきた娘には、つい愚痴ってしまう。


「ちょっと心配性も度が過ぎててね・・・私も自分の時間が欲しいわ。気分転換に。この前なんてね、こんな時期で感染しそうだから、美容院に行くなって言うのよ! どう思う?」

すると、娘は「お父さんらしいよね。そういうところ」と、くすくす笑ってこう言った。

「うーん・・・お父さんに切ってもらうのはどう? 暖かくなってきたし、晴れた日に庭で。お父さん、私が小さいころ髪の毛切ってくれてたじゃん。上手だったよね?」

「まぁ、あれはこどもだから良かったけど、おとなの髪の毛、ちゃんと切れるかしら?」

すると、娘からLINEが届いた。
メッセージを開けてみると、Instagramの動画が貼り付けられている。
朝ドラの福ちゃんがお庭でケープを巻いて、ダンナさんの・・・誰だったかしら・・・俳優さんに髪を切ってもらっている。
青白い春の空気感、ダンナさんの真剣なまなざしが微笑ましい。

そうね。切ってもらうのもいいかもしれない。
失敗したところで、どうせ誰にも会えやしないんだし。

 

「ねぇ、私の美容師さんやってみませんか? ちょっと伸びすぎちゃったから」

夫はにっこり笑って被ってもいない帽子を脱ぎ、うやうやしくポーズをとる。

「承知いたしました、奥様。すぐに準備いたしますので、今しばらくお待ちくださいませ」

 

さく、さく、さく・・・と髪が落ちる。
さらさらと風が頬をなで、ハナミズキが綿雪のように舞い落ちる。
足もとの木漏れ日が揺れるのを見ているうちに、とろりと眠気がやってくる。
力強くて心地いいシャンプーはないけれど、まぶたが重くて心地いい。

「次は前髪切るから、ちょっと目つぶって」

まぶたを閉じると、ふわっと甘い香りがした。

サンダルウッドとムスク・・・今日の香りはエゴイストかしら。
あれ?
ああ、そうだ。煙草はやめたんだったわね。
おでこに触れる夫の手はあたたかくて、いとおしい香りがする。

どんな表情をしてるんだろう?
そっと薄目を開けてみると、真剣な表情の夫と目が合って、何だかくすぐったい。50年も経ったのに、こんな風にドキドキするなんて。
あぁ、しまった・・・マスカラすれば良かったなぁ。
念入りに塗って長く見せたところで、どうせ気付かないんだろうけど。

「動かないでよ。短くなっちゃうよ」って言葉に、「あらあら、それは困りますね〜」なんておちゃらけた返事をして、私はまた目を閉じる。

たまには、こんな時間もいい。

 


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