【嫌いなアイツとゾンビと俺と】第9話

 空が白み始めた頃、二人は再びヘリポートを目指して歩きはじめた。
 まだ肌寒さの残る朝は、学ランの温もりが温かい。
 遠くに見える海から太陽が半分ほど顔を出し、凪いだ水面を橙色に染め上げている。

 ここまで、ゾンビは一体も出て来なかった。
 まるで嵐の前の静けさのように、逆にそれが不気味ですらあった。

「あとはこの住宅街を抜けて、大通りを右に曲がれば、その先に本土に続く六島大橋がある。ヘリポートはすぐそこだ」

 空斗の声に、歩樹はしっかりと頷き、片手に持つアタッシュケースの感触を確かめる。
 ヘリポートは六島大橋から本土に近い場所に、海の上に建設される形で存在する。
 中等部の頃には、見学に出かけたこともある。

 空が明るくなってから、青空の下、二人は住宅街を進み始めた。
 すると前方から、小さな人影がとぼとぼと歩いてくるのが見えた。黄色い帽子を被っていて、水色の上着姿だ。ひと目で子供だと分かる。あの制服は西波にしなみ幼稚園のものだ。

 ゾンビは老若男女を手にかける。だが、子供を手にかけるのは、決して気分がいいものではない。歩樹の胸がズキリと痛んだ。ただ、そこで気がついた。

「うぇーん。グス……っ……ママ……ママぁ」

 泣き声が聞こえた。驚いて歩樹は空斗を見る。すると空斗も目を見開いていた。
 ――ゾンビは、喋らない。
 呻き声を上げることはあっても、会話は不可能だと、既に抗戦して理解していた。喉や脳も腐り、思考が出来なくなり声帯も機能しないからだろう。

「大丈夫か!?」

 思わず歩樹が走り寄る。すると空斗が、手を伸ばした。

「待て歩樹!」

 しかしその声が響き終わる頃には、歩樹は駆け寄って幼い少女を抱き上げていた。

「おにいちゃん、だぁれ?」
「俺は歩樹だ」
「怖い人じゃない? 幼稚園のみんなも、先生も、みんな怖い人になっちゃった……うぇえええん。ママに会いたいよぉ!」

 泣きじゃくる少女の髪を、心配そうに歩樹が撫でる。ゆっくりと歩いて追いついてきた空斗が腕を組んだ。

「ここまで一人で来たのか?」
「ううん。バスの運転手さんが送ってくれたの。でも、変な人がいっぱい来たから、さぁちゃんのことだけ逃げろって……」
「さぁちゃんって名前なのか?」

 歩樹が尋ねると、涙を拭いながら少女が頷いた。

山葉沙彩やまはさあやって言います!」

 子供らしく高い声に、歩樹が頷く。

「ここ、さぁちゃんのおうちなの。ママ、ママが家にいるの」

 沙彩はそう言うと、斜め向かいの一軒家を指さした。歩樹と空斗が視線を合わせる。これまで生存者については、高杉達以外はあまり意識してこなかったが、こうして遭遇した以上、他にもいるかもしれない。

「俺がドアを開ける。歩樹はその子を」
「あ、ああ。気をつけろよ」

 歩みよった空斗が、ドアノブを握る。しかし施錠されているようで、扉は開かない。思案するような顔をしてから、空斗が刀を引き抜き、ドアの前で構える。そして歩樹が見ている前で、ドアを斜めに切り裂いた。ガタンと音がして、ドアが斜めに切れ、二つになって落下する。

「うごぁぁあああああ!」

 直後呻き声がして、ピンク色のエプロンが腐肉で汚れた女性が襲いかかってきた。
 慌てたように空斗が後退する。

「ママ!」

 すると沙彩が声を上げた。その声には嬉しさが滲んでいる。けれどゾンビと化しているのは、歩樹と空斗から見れば明らかだった。

「ママ、ママ!」

 沙彩が歩樹の腕から逃れようとした。だが歩樹は、慌ててギュッと抱きしめる。
 視線だけでチラリと一瞬だけ振り返った空斗が言った。

「先に行け。子供に見せたくない」
「――ああ」

 それは歩樹も同じ気持ちだった。それに一体だけならば、空斗にならば倒せるという確信がある。歩樹は沙彩を無理に抱き上げ、その顔を自分に押しつけるようにし、少しの間走った。そして大通りの手前の軒先で足を止め、沙彩を下ろして、幼い肩を両手で叩く。

「少しここで待とうな?」
「ママは……?」
「その……」

 歩樹が言葉を探していた時だった。

「ママは今、空の上に出かけたんだ。沙彩ちゃんを見守ってる」

 いつになく穏やかな声がし、後ろに立った空斗が声をかけたのだと、歩樹は理解した。
 ――空の上。
 ――天国。
 ――無事に、逝ったのだろう。
 ゾンビはもしかしたら地獄に逝くのかもしれないし、そもそも天国や地獄といった死後の世界が本当に存在するのかすら歩樹は知らなかったが、こちらもまた無理に笑った。空斗の優しい換言を無駄にはしたくなかった。幼い子供に、死を突きつけたくない。これもまた、偽善と言われればそうなのかもしれなかったが。

「さ、大丈夫だ。俺達と行こう」
「歩樹、大通りを抜けるぞ。もう時間が迫ってる」
「分かってる」

 沙彩を再び歩樹が抱き上げる。ゾンビが襲い来る街において、少女を連れて走ることはリスクを伴うけれど、ここに見捨てていけば、死んでしまうのは明らかだ。歩樹にはそんなことは出来なかったし、空斗も何も言わないから同じ気持ちなのだろう。

 もう空斗が、誰かを見捨てておいていくような冷たい性格ではないと、歩樹はよく知っている。こうしてその後は――三人で大通りへと向かった。

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