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イスラエルとパレスチナに行って、ホームステイした話

コロナ直前の年、個人的にイスラエルとパレスチナに旅行に行き、短期間ですがパレスチナのお宅に泊めて頂きました。
今は無理かもしれませんが、平常時だったのでFive star clubという旅行会社で簡単にホームステイ込みの旅行プランを手配してもらえたのです。

訪問先はガザ地区ではなくてヨルダン川西岸地区、ベツレヘム。キリスト生誕の地とされている事もあるためか、お世話になったお宅もイスラム教ではなくキリスト教徒でした。

渡航先にイスラエルパレスチナを選ぶ特別の理由があったわけでもないのですが、「まだ行った事ないし面白そうだから夏休みに行ってみようかな」ぐらいのテンションでした。

今回はその時の事を思い出したのをきっかけに考えた事などを、つらつらと書いております。(ほぼ内的探求の話であります)



パレスチナでの出来事


パレスチナでお世話になったお宅は、成人して働く息子さんが2人、小学生の娘ちゃんが1人、お父さんと主婦のお母さん、という構成の一家でした。
ホームステイ受け入れをよくしているようで、慣れているのかそんなには構われなかったんだけど、車で分離壁やバンクシーの絵を見に連れて行ってくれたり、夜はスーパーやバーに連れていってくれたり。
それ以外の時間は1人で歩いて(またはタクシーで)キリストの生誕地や教会を見に行ったりカフェでアイス食べたりしてました。

昔から持っていたイメージよりもずっと穏やかな“日常“の生活が広がっていました。

背も高くお腹の出っ張ったお父ちゃんは豪快なタイプで、街に出ればあちこちに友達がいて挨拶を交わすし、家の中では体のどこかを悪くしているらしい奥さんの前で「こいつは働きにも出れないんだから。日本人で誰かいい女性紹介してくれよ、ガッハッハ」とか言っちゃう人でした。

(おい……やめろ……    と内心思っていた)


アイス。たぶんピスタチオ。

ある日そんなお父ちゃんが車で観光地に連れて行ってくれた時、あまり行った事のない場所らしく道に迷い、イスラエルの検問所がある手前で「しまった間違えた」とUターンしようとしたところ、ライフル銃を持ったイスラエル兵に不審に思われて止められました。

有無を言わさぬ態度のイスラエル兵にIDや私のパスポートも取り上げられて調べられ、ハラハラした気持ちで待つ事5分。
パスポートは戻され、無事に解放された時のホッとした事といったら。

ただ、家族や友人達の前ではふんぞり返って笑っていたお父ちゃんが、イスラエル兵の前では委縮してペコペコしていたのが、何だか悲しかった。


分離壁
お昼ご飯。チキンと玉ねぎを煮込んだようなやつを、ナンのようなやつでくるんだもの。


私の世界観をつくった原体験


唐突に時は巻き戻って、私の子供の頃の話です。小さい頃、私は3歳上の兄によくいじめられていました。
時には仲良く遊ぶ事もあったけど、兄のおもちゃや漫画を勝手に触るとぶたれたりするので、ビビりながら接していたように思います。

覚えているのは、私が当時一番お気に入りでいつも抱いていた小さなウサギのぬいぐるみを、兄に全体重をかけて思い切り踏みつけにされ、ペシャンコにされた事。
小さな女の子にとっては、親友であり我が子ともいえるぬいぐるみ。それが目の前で踏みにじられても、3歳上の兄に力でかなうわけもなく、泣き叫ぶ事しか出来なかった。憎しみと屈辱感を抱いた事を今でもハッキリと覚えています。そして、大切なものを守れない自分の無力さへの絶望。

その頃から私の内面には、「世界は戦いだ」「弱いと見下され踏みにじられる」「バカにされない自分にならなくてはいけない」という世界観が無自覚に形成されてきたように思います。


小さな頃の私はとにもかくにも引っ込み思案で、人見知りをするシャイな子供でした。
ある時、小学校のクラス行事で保護者も招いてみんなで白玉を作る事がありました。
その際、普段から忘れ物の多かった私は家から持参しなければいけないスプーンを持っていくのを忘れました。
途中で気づいたのですが、「スプーン忘れました」の一言をいう事ができず、作った白玉をみんながワイワイ食べ始めても黙ってじっと俯いていました。

しばらくして、近くにいた他の子の保護者が気づいてくれるまで、地獄のような時間を過ごしました。(その日自分の親はいなかった)

引っ込み思案だし忘れ物が多かったので、そんな事が割とよくあったと思います。その度に恥ずかしさと、自分自身への惨めさを感じて来ました。


世界観を通して見てきたもの


そんな風に自分の“無力さ”や“不十分さ”に沢山痛い思いをしてきたので、自分を鍛え上げて強くなること、自分をより良くして人から「いいね」って言ってもらえる存在になる事が至上命題でした。

そんな状況においては自分の中の弱さは許されるものではなく、泣いていたあの日の小さな自分は切り捨てて生きてきました。

海外にどんどん行くようになったのも、異文化を見に行くのが楽しくて好きという理由ももちろんありますが、自分を鍛える一環でもありました。

仕事も含めて計66回の海外渡航をし、せっせと自分を鍛え上げてきましたが、そんな中で多くの多様な人達との出会いや関わり合いがありました。
国や文化による違いが私の中で「決定的な違い」として感じられた事はあまりなく、逆にくだらない冗談で笑い合ったり友達になったり恋をしたり、泣いちゃったり愚痴を言ったり、「やっぱり我ら同じ人間だね」と同じ体温を感じる機会の方がほとんどだった。

小さな心を抱えて歩く中で、たくさんの小さな心たちと出会い、肌で感じることが出来ました。

国家規模の出来事も、理解出来ないような暴力も、大仰な大義名分も、大抵は一個人の小さな、極めて個人的な内面世界から来ている。その連鎖で世界は出来ていると感じます。


痛みとともに生きて育んできたもの


自分が無自覚に持ってきた世界観や自己認知のために、「強くならなきゃ」と駆り立てられるように頑張り過ぎちゃったり、時に人との関係性をこじらせたり、自分自身が焦燥感や虚無感にかられて辛くなることも沢山ありました。
ただ、自分の中で弱さ、葛藤、絶望を抱えて生きてきたからこそ、人の内側にあるそれに共鳴し感じ取り、なんとか力になりたい、支え合いたいという想いも湧き上がるんだと思っています。

バカにされていい人間も、軽んじられていい人間も存在しない。全ての人が、誰よりも自分自身に愛情とリスペクトを持って生きていける世の中になって欲しいと思う。その願いはきっと、幼い頃の経験や、苦しみながら歩いてきた道の中で生まれてきたものです。

私はコーチの仕事をしていますが、正直「コーチングがしたい」という思いはあまりありません。
コーチングは目的ではなく、武器の一つに過ぎない。積み重ねてきた知識や想いという全ての武器もなりふり構わず総動員して、人や世界と向き合っていきたい。

バンクシーが、絵の中で石を花束に持ち替えさせたのと同じように、自分だからこそ届けられるものを届けていきたいと今では思っています。


弱くて小さかったあの日の自分を、切り捨てて歩いてきた人生でした。

今は、共に歩いています。

傷ついて泣いていた自分を、1人ずつ拾いながら。

ぬいぐるみを踏まれて泣き叫んでいた自分も。

スプーンを忘れてうつむいていた自分も。

そして、友達の結婚式でサプライズで急に友人代表スピーチをその場で指名されて、大勢を前に震えながら拙いスピーチをして恥ずかしい思いをした、あの日の自分も。(←根に持ってる)


ベツレヘムのスーパー
バー。
イスラエル、エルサレム。敬虔なキリスト教徒とユダヤ教徒とイスラム教徒が集まってくるのですごい熱気です。
イエスキリストが十字架を背負って歩かされた道を、
巡礼者も巡ります。
ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」
嘆きの壁、女性エリア
イスラエルのカフェ



“こころもち”が変われば自分が変わる。

自分が変われば世界が変わる。

そう信じて一歩ずつ、歩いていきたい。





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