田口ランディ『ハーモニーの幸せ』を読んで 『バリ島のギフト』
今回から田口ランディさんの『ハーモニーの幸せ』の感想を書いていきたい。
まずは『バリ島のギフト』。
最初のニページ半を読んで、この人はなんて繊細で、自分に正直な人なのだろうかと感動した。自分に正直、というよりは自分を真剣に見つめ続けている人と言ってもいい。私はこの箇所だけで、田口ランディという作家のファンになったと言っても過言ではないだろう。
言い遅れたが、この本はエッセイなので、ストレートに著者の気持ちを味わうことができる。
話は自分をリセットするためにバリ島へ旅だったときのもの。
なぜバリ島なのかというと、バリにはニュピと呼ばれる祭りがあるからで、この日は日本でいう大晦日に当たり、一切の火を消して瞑想する日だそうだ。心の火も消して、一年のリセットをする日と言われている。
「行かなくてはならない切実な事情が、私にはあったんだと思う。旅はよくそんなふうにして始まる」
田口ランディは書いている。確かに私自身、精神的に参ってしまい、会社を休んだとき、一人旅に五色沼に行ってきたが、場所の問題ではなく、初めての場所に一人で旅をすることが、将来の自分にとって重要なことになりそうだという予感めいたものを感じたものだ。
バリ島には古い慣習があり、それが元になってバリ島の人々の生き方も日本とはまったく違う。人間は宇宙を内包した存在で、宇宙を小さくしたのが人間なのだという考え方もそのひとつ。「一人の人間を存在としてパーフェクトだと認める文化」に著者は圧倒される。日本人はどうしても自分を不完全な人間だと思ってしまう。それは自分を成長させるためには悪いことではないが、完全な人間たちの住むバリ島では虚しさを感じてしまう。
「バリ人の祭りに傾ける集中力はすごい」、「どんなことに全身全霊を傾けても自由」なのだそうだ。日本人がくだらないことの一言で済ませてしまうことに、一生懸命になれる自由には、どこか憧れてしまう。旅に出たくなる理由もその憧れが原因なのかもしれない。
「くだらないことなんて何もない。それなのに、くだらないことと大切なことがあると思い込んでた」という著者の言葉は、私のこれからの人生の指針にもなってくれそうだ。
二十四時間の瞑想(うたた寝の時間もあったようだが(笑))の中で、著者は神様を意識し、不思議な体験をする。
外から聞こえていたはずの鳥や虫、カエルの声がガムランのように反響し、自分の体もそれに反響しだしたのだ。それはただの錯覚だったのかもしれない。「どんなふうに錯覚するか」、それすらバリ島では自由なのだ。
バリでの祭には自意識などいらない。ただ、神様から花や草を受け取るだけでいい。そこには自意識などうっとうしい存在なのだ。「ああ、私はまだこんなに自分にこだわっていたんだな。そして自分にこだわり続ける限り、他人にこだわり続けるんだな。他人にこだわり、他人の言動に感情を揺さぶられ、他人の評価にオタオタして、他人に自分を合わせる。そこから逃げられないから、私はときどき辛い。分かち合えない」。
日本での不自由さに思いを馳せるとき、著者は苦しく辛い思いをする。これは日本人ならば誰しもが思ったことがあるに違いない。
日本とバリ島のどちらが人間らしい生き方なのだろうか。
お寺でお参りをし、無心になって手を差し出すと、「確かに何かを受け取ったような不思議な気分になる」。
「この世界は無尽蔵にギフトが溢れかえっている。なんで自分だけ貰えないと思っていたんだろう。くださいと手を出さないから、貰いそびれていたのかもしれない」。
何もしないで待っているだけではギフトはもらえない。まずは自分から行動しなければ幸せにはなれない。手を差し出す勇気を持つことで、人間は幸せになれる。
そんな行動する勇気を与えてもらえた。感謝、感謝。
後は(あまり欲張らずに(笑))両手を差し出すだけだ。
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