「吾輩は猫である」に萌えている話。
気が向いて、「吾輩は猫である」を読んでいる。
文豪、夏目漱石の著作の一つということはあまりにも有名で、冒頭の「吾輩は猫である。名前はまだない」という書き出しも同じくあまりにも有名だ。
ただしわたしは周りで読んだことがある人、もしくは読み切った人に出会ったことがない。恐らく理由は、単純に長いからだ。
図書館に並んでいるのを始めてみたとき、たしか上・中・下の3部構成になっているのを見て、手に取るのをためらった。今は青空文庫の電子書籍版で読んでいるが、それでもときどき「あとどれくらい!?」と全体に対しての進捗率を確認してしまう。(ちなみに今1500ページを少し過ぎたところで、全体の2割の位置にいるらしい)
だけど今回はわたしはこの一冊にはまってしまっている。「吾輩は猫である」に隠されたかわいさに気がついてしまったからだ。
かわいさの説明の前に内容に触れておくと、想像していたよりもおもしろく、読みやすい。猫が口達者な割にどんくさいところがある(ネズミが獲れない)のも、猫目線で主人や主人の友人を批評するのも、その主人の胃が弱いところも。猫同士の会話が描かれているところでは、「あー猫界にもこういうのいるんだなぁ」と変に得心してしまう。
それから、漱石の書く文章は、古い文体とはいえ読み手の想像をかき立て、映画のようにそのシーンを想起させる。
たとえば、
しかし一番心持の好いのは夜よに入いってここのうちの小供の寝床へもぐり込んでいっしょにねる事である。この小供というのは五つと三つで夜になると二人が一つ床へ入って一間へ寝る。吾輩はいつでも彼等の中間におのれを容るべき余地を見出みいだしてどうにか、こうにか割り込むのであるが、運悪く小供の一人が眼を醒さますが最後大変な事になる。小供は――ことに小さい方がたちがわるい――猫が来た猫が来たといって夜中でも何でも大きな声で泣き出すのである。すると例の神経胃弱性の主人は必かならず眼をさまして次の部屋から飛び出してくる。現にせんだってなどは物指で尻ぺたをひどく叩たたかれた。
という部分
子どもの布団に潜り込んで、つまみ出され、”尻ぺた”を叩かれる猫の姿が簡単に想像できる。
そして”尻ぺた”、という表現だ。なんだこのかわいい単語は。
昔はみんなこんな言い方をしたのか、それはよく知らないが、「尻ぺた」は猫のお尻をさす言葉として、もっとも適切だと思う。
お尻ほど立派ではなく、臀部ほど仰々しくなく、「尻ぺた」なのだ。
「こころ」を読んだときには感じなかった、どこかかわいらしさを感じる言葉選びが「吾輩は猫である」に散りばめられている。
それを見つけるのが最近の楽しみだ。
終わり方の好みが分かれると聞いたことがあるので少し怖がってもいるが、読了目指して読み続けたいと思う。
おわり。
Day21.