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自分に嘘をついていたら、いつまでたっても人も組織も変わらない(真の創造性の獲得とエゴの解消)

よく私は周りの人からきつい、きついとそういわれる。つまり、ストレートになんでも物事を相手に伝えることではなく、もっとオブラートに包んで愛ある発言をしろ!とそういう意味になる。

わたしは性格上、なんでもかんでもオブラートに包んで、相手のいいようなことを言えない人間です。なので、そこで思ったこと、目にしたこと、それがどれだけ、その相手にとって理不尽なことであったとしても、それらをありのままに口に出してしまう。

これは、どうやら世で言う発達障害の部類にあたるらしい。

空気を読むという事が大事なのはわかっている。他人に忖度しなければならないという事もこの社会を生きていくには必要なことだという事はわかっている。

でも、私にはそれがなかなかうまくいかない。

だからなんでも言ってしまう。自分の目に見えた事、感じた事、そこにある事実。

でも、これが社会ではなかなか受け入れられないのが事実。

ただそこにある事をただそのままに口にする。それが相手を傷付けることになる。だから、もっと考えて発言しろ!とそう言われる。でも、考える前に、私は嘘をつくことが出来ない。

だから、この社会ではあまりうまく適応して生きていくことが出来ない。

周りを見るとみんな嘘ばかりついて、自分の保身の為に奔走している。

みんな自分が傷つくのが怖いし、誰かの発言によって、その心が反応するのも恐れている。誰かの言葉に自分が刺激されることを恐れている。

そこはずっと誰にも触れられずに、自分の無意識の底に隠しておいたのに、そこを刺激するなんてひどい!多くの人はそう言って、私から距離を置く。

でも、みんなにわかって欲しいのは、私は決して誰かを傷付けるために発言してるのではないという事。ただ、そこに見えるものがあり、自分にわかることがある。だからそれを私は正直に伝えているだけ。

でも、この正直さが皆の心の深い部分を刺激する。だから、きついと避けられる。愛がないんだと避けられる。一方的にそう決めつけられる。

本当にキレイなものはキレイという。でも、歪んでいて汚いものは汚いという。こうした在り方の何がいけないのか?私は未だにわからない。

社会は正直に生きることが大切だ!とそう高らかに謳うけど、自分をさらけ出して正直に生きたところで、この社会に私の居場所などない。

そんなことを最近強く感じた。

キレイなものはキレイといえる社会、汚いものは汚いとそういえる社会。そんな寛容な世界であって欲しいと心から望む。

今はティ―ル理論というものを読んでいるけれど、これは簡単なことを言えば、皆が保身をやめ、そして真に嘘偽りのない姿で向き合い互いにつながることが出来れば、達成可能な事なのだと私は思う。

真の創造性とはエゴの中に埋もれている。だとしたら、そのエゴをどう取り除くか?という事が何よりも大切なことなのだと心から感じています。

私が多くの人に考えてほしいのは、なぜ?という事です。なぜ、腹が立ったのか?なぜ、いらっときたのか?なぜ、ネガティブな反応を起こしてしまったのか?それらを取り除くことなく、自分の中から真なる創造性は生まれてはこないのだとただただシンプルに思う。

何かを学ぶのも大切なことだが、まずはエゴの中に自分が埋もれてしまっているという事に気づくことが何よりも大切だとそう私は思っています。

なぜ?と自らを問い続けることはとても大変なことではありますが、それでしか、自らを知ることは出来ません。自己が自我に埋もれていて、それを見出すことが出来なければ、きっとわたしたちは何を選択し、判断し決定したとしても、それは自らの純粋意識に立ったものではないとそう思っています。

どれだけ、優秀なプロジェクトも、そして組織も、この意識がそれぞれ、純粋意識(自己)にまで高められていなければ、つまりエゴ、これを脱していなければ、そのプロジェクトも、そして組織も真の活動につながることはないとそう思っています。



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