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社会

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#心

内的衝動と創造

私たちは自分を表現したいから文字を書く。そして絵を描く、何らかの造形物を作る。でも、今これがAIにとって代わられようとしている。 表現したいから作るのであり、この表現するという部分をなんだか切り落とされてしまっている気がしてならない。 作りたいから、作るのであって、何かが欲しいから作るのではない気がする。作らずにはいられない、書かずにはいられない、何か創作せずにはいられない。こうした強い衝動が私たちの中にはあり、それを私たちは外の世界に向かって表現する。 これは言って

なぜ、わたしたちはその心を硬化させてしまったのか?(現代の危機に見る若者の心理)

現代の危機現代社会において、個人はますます個体化し、社会全体が高度に合理化されています。一方で、人々は感情や直観的な思考を無視し、合理性や生産性に重点を置くようになっています。このような傾向は、個人の生き方や社会全体の運営に深刻な影響を与えています。 でもこうしたことに多くの人は気づいていません。私たちは無意識的に合理性や生産性こそが重要であるといつの間にか自分でも知らないうちにそう思うようになってしまっています。 個人の強固な個体化は、他者との間に太い境界を引くことにつ

映画カッコーの巣の上で(人間はどっちだ?)

こんにちは、Recovery of humanityの美月詞葉です。 今日は、1975年に公開された名作『カッコーの巣の上で』について紹介したいと思います。この映画は、ケン・キージーの同名の小説を原作としており、精神病院に入院した男性が、管理主義的な看護婦長と対立しながら、他の患者たちに自由をもたらそうとする物語です。ジャック・ニコルソンが主演を務め、アカデミー賞を含む数々の賞を受賞しました。 映画のあらすじは以下の通りです。 刑務所から逃れるために精神病と偽って精神病

社会が作る恐怖のネバーランド

人の流れを止めるなんて事は絶対に無理。だって、皆この社会に多くのストレスを抱えているから。そのストレスが解消されない限り、私たちの動き、行動を止める事なんて出来ない。外国の様に強制力をかける意外、私たちの動きを止める事なんて出来ない。 前にも書いたけど、私たちは皆それぞれにストレスを抱えている。そのストレスを解消する為に、あちこちに出かけて行ったり、何かをしたりする。 もし、この個々が持つストレスを大幅に減らす事が出来れば、私たちはこんなに必死になってまで、危険な外に出て

コスプレがもたらす内的変容

コスプレとは面白いもので、そのものになると、何故か、そのものの中に自分が消え、いつもの自分とは全く違うものとして存在出来る気になる。 いつもと、着ているもの、身につけているものを変えるだけで、私たちは意図も簡単にキャラ変する。内気な人が、コスプレによって大胆になったり、あまり社交的ではない人が、衣装を変えるだけで、人が変わったように社交的になったりする。 こういう事を見ていると、つくづく人間とは面白いものだと思わされる。 衣装を身につけていなければ、何も言えない様な小心

それ、わかる!という言葉の表と裏

それ、わかる!とそう言いながら、意外に私たちは、何もわかってない。わかる、わかる!あなたの言っているその事に共感する!って口では言っておきながら、心の中では意外に、何の共感もしていない。 私たちの使う言葉って、本当に浅はか。 本当は何もわからないし、何も共感なんてしてないけれど、口から出る言葉はホント適当。自分の思いと、言葉が全く一致していない。本当は何もわかってなどいない。何も共感など出来ない。でも、相手と言葉をすり合わせる様に、そうしないと不安でいられないから、一生懸

有限なる世界のその先に広がるは、永遠で無限なる世界。その世界の中にこそ生きる事の本質がある。

右を見ても、左を見ても、皆自分ってものを作るのに必死だ。 何とかして、私というものを作ろうと必死だ。私を何とかして形作らないと、どうにかなってしまうかのように、皆必死で、私というものを形成する。 人間というのは、私という全体から独立したものが欲しくて仕方がないらしい。全体の中から、抜け出て、独自の存在になりたい。だから、皆必死になって毎日毎日私を形成する事に命を懸けている。 皆、この全体という世界の中から出て、私という独自性を獲得した気になっているけれど、それは言ってみ

子供が聞きたいのは、一般的な話ではなく、あなた個人がこの世界との間に紡ぎだしたストーリー。

私たちは、毎日なるべく考える事から逃げている。考えたくないから、ただ反応するという事に逃げている。生きていくには、何かを深くまで思案するのではなく、ただ目の前の現象に対して反応しているほうが楽だからだ。 私たちは、大人になるにつれ、賢くなるのか、馬鹿になるのか?それは定かではないが、何でもかんでも合理的に考える様になっていく。不合理な事は排除して、何でもかんでも合理的に考えたり、行動しようとする。その方が、スマートな生き方だと何故か、不思議と思う様になるのだ。 子供という

これからやってくる未来の幸福感の形

物を買っても買ってもこの心は満たされない。むしろ、買えば買うだけ、空しくなって、幸福感なんて何も感じないとなったら、私たちは一体何を求めるだろうか? 寂しいから、人を求めて、その中にぬくもりを私たちは求めようとする。でも、このぬくもりが自分を満たしてくれない、自分を幸せにしてくれないとしたら、私たちはどうするだろうか? いくら買っても、いくら人のぬくもりを求めても、それらはいつもこの手からするりと抜け落ちて消えていく。自分に十分な幸福など与えてくれない。手にしたその幸福感

横一列の平等主義がもたらした世界

私たち人間は、知識というものを共有するべきではなかったのではないかと最近思う。こんな話を聞いた事がある。 知識というものは、一部の人間だけが持つべきものであり、その知識の全てを人間皆で共有すれば、世界には破滅がやってくる。知識というものは、本当に優れた人間だけが持つべき特別なものであり、その知識を一般人に持たせるべきではないと。知識というものは、正しく使われればそれはとても大きな効果をもたらす。しかし、その使い方を間違えれば、この世界はあっという間に破滅する。 皆が、教育

混血殺しの純血主義

今、世界のあちこちでこの純血主義による混血殺しが多発している。 我らこそが、唯一なる者。そう言った純血主義者が、そうでないものを選別し、そして排斥し始めた。これはとても危険な兆候。 純血主義とは、自分たちは、唯一なる存在だとそう思っている。そして、その自分たちは、混血の人たちを支配し、そして教育する必要があるとそ思っている。 純血主義とは、その例えで一番わかりやすいのは、アメリカ大統領のドナルドトランプ。彼は自分こそが唯一なるものだといった思考を持っている。 今アメリ

強権的思い込み (この世界のDeath Etaer)

これこそが正しいというその絶対感が悪を作る。こうしたあり方こそ全てというそうした考えが、社会的悪を作る。 これこそ全て、これこそ絶対。こうした考え、思い込みは非常に危うい。この世界には絶対的なものなどない。でも、私たちは何かとこれが絶対的だとか、これが正しいものだと決めたがる。 そういったものを決めそれにすがり、自分の正しさを証明したがる。正しさなんてものは、相対的なものであり、その都度変わる。 絶対的だと言われるものを信奉し、そしてそれに依存する事程恐ろしい事はない。

シャープでスマートな世界が本当に人間としての幸せか?

何でもかんでも合理化して、不必要なものは、切り捨てていく。そう言った生き方は、ビジネスという観点に立てば有効かもしれない。でも、人間という観点に立った時には、こうした考え方は果たして本当に有効なのだろうか? ビジネスにおいては、いらないものは確かに潔く切り捨てていくというそう言った考えが出来なくてはいけないと思う。でも、この考え方をこの社会や、私たちの生活に組み込むとなると、それは別の話の様な気がする。 何でもかんでも、合理的に考えて、理知的に考え、判断し、そして排除して

足るを知らない肥大化した自我によって奪われる私たち人間の在り方

これから、私たち人間が得ようとしている永遠の命について考えてみた。 色々なテクノロジーが進化して、人間はこれからどうやら不老不死を手にしてホモデウス、つまり神の人になるらしい。 何でもかんでも全てを自分達で支配し、そしてコントロールする。何もかも自分達で作り出そうってことらしい。 人間というのは、本当に欲深くて、足るという事を知らない。次から次へと目的を変えて、それを達成させていこうとする。そうやって、人間というのは、自分たちがいかに素晴らしい存在であるのか?を見せつけ