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生きる

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ー破壊そして再生へー
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#エッセイ

子育てにおける天使と悪魔

ミラレパ(1052年-1135年)は、チベットの仏教業者・聖者・宗教詩人で、一生のうちに仏陀の境地を成就した偉大なるヨーガ行者として、尊敬を集め、万物に愛されている最も有名な一人です。 以下は、そのミラレパが残した言葉。 男の子だけ責めるのは不公平というもの、さらにミラレパはこう語る。 この言葉は、生まれてきたわが子というものに過度な愛情をそそぐ事の愚かさを謳っている。 初めてこの言葉に触れたとき、何故か心をグッとつかまれた。 あまりにもその通りだったからだろう。

きちんとするってなんだ?

ニ、三日前から、千葉雅也さんの現代思想入門という本を読みだした。 この本の冒頭に「現代ではきちんとする方向へと、色々な改革が進んでいて、それにより、生活がより窮屈になっている」という文言がありました。 きちんとする、ちゃんとしなければらなない。逸脱を取り締まって、ルール通りにキレイに社会が動くようにしたい。 これはまさに千葉さんのおっしゃる通りで、わたしたちはいつからか、綺麗なものこそが一番素晴らしいものだという幻想にとらわれるようになってしまったと私自身も強く感じると

進撃の巨人(壁の中の人間)

進撃の巨人の冒頭にアルミンが言う強烈なセリフがある。 この言葉は、この物語を見るものに対する著者の強烈な皮肉なのではないかといつも思わされる。 現代に生きる私たちは、今まさにこの状態。 今までが何もなかったから、これから先も特に何もなく穏やかに暮らしていけるだろうといった安易な気持ちで日々、大人たちは特にこれといった緊張感を持つ事もなく生きている。 このアルミンの言葉を聞くたびに、これと似たような事を言うエレンの言葉を聞くたびに、私は自分の心がえぐられる。 彼らの言

私から、私ならざるものへの移行

何もかもが解体されて、私たちはどんどん無気力になっていく。この流れは、これから益々加速する。 私たちは大切なものからどんどんとその身を引き離されて、解体されて行く。大切なものとの繋がりが段々と失われて行く。かつて自分と共にあったそのありとあらゆるものが、自分から切り離されていく。そしてそれらは徐々に自分から遠ざかっていく。そうしたものが自分の元から遠ざかれば遠ざかるほどに、私たちは、自分を失う。 今この時代はものすごいスピードで私というものを解体しようとしている。私という

未来を予見し、今を構築する力を。

これからは、しっかりと色々な事を考えて行動しないと、生きていけなくなる。適当に、その場限りの誤魔化しで生きていけたのはこれまでの時代。これからは、何も誤魔化す事は出来ない。嘘をつく事も、隠し事をする事も、自分を偽る事も出来ない。他人を欺く事も、自分に嘘をつく事もその全てが罪になる。そんな時代が来る。 全くのクリアーな人間しかこれからは、生きていけない。今の内に自分の心の中にあるものを全てさらけだし、その全てとしっかりと対峙し、それなりに自分の持っている問題を解消しておかない

色をもっと効果的に使おう!

もっと生活に色々な色を取り込めばいいのに、意外に皆色々な色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまっている。皆が着ている洋服も、外に出れば、田舎なんて特に、黒やグレーばかり着ている人だらけだったりする。色は効果的に使えば、沢山いい事があるのだけれど、その色の効果を知らない人は、何故だか意外に生活そのものに色を取り入れずに、なんとなく無難な色でまとめてしまう。これってすごくもったいない。 人間というのは、自分の目にする色というものから多くの刺激を受けていたりする。色を

創作という名の自己解放

自分の好きな事をしていると、いつからかそれが自分の重荷になって気づいてみたら、その重荷で自分が右にも左にも身動きが取れなくなっている事がある。 これ好きだなーと思ってやっていた事も、気づいてみるとそれが自分にとっての苦しみになってしまっている事が私には多々あった。楽しくて、それが好きでやっているはずなんだけど、いつしかそれが自分の中で嫌いになっていく。そのものに近づこうとすると、そのものは私から離れていく。そのものが私に近づいてくると、私はそのものから逃げたくなる。こんな事

混沌は傲慢を生み、秩序は謙虚さを生む

私たち人間というのは皆、自分というものを過信していると最近思う。コロナの事もあるけれど、私たちは自分で自分の事をコントロールする事が出来るというそう言った強い思い込みみたいなものを持っている。 私たちは意外にも、自分で自分をコントロールする事など出来ていない。自分を制御する事が出来ているとそう思うのは、単なる幻想でしかない。実際問題、このコロナ禍にあっても自分の中にある誘惑に負けてしまうという人がわんさかいる。 自分でそれなりに感染対策していれば、それで大丈夫だ!なんてこ

死はキラキラと光っていつでも私たちを魅了する。

私たちは、毎日何かに追われている。毎日、毎日必死になって前に進んでいかなければ、後ろから大きな口をあけた社会という魔物が追いかけてくる。少しでも休んでいたら、その後ろから追いかけてくるその魔物に足を食われる。 私たちは自分ってものを失いたくなくて、必死にこの魔物から逃げる。 私たち人間というのは、この自分の後ろから追いかけてくる魔物から逃げる事しか出来ないのだろうか? 何故、毎日自分を追いかけてくる魔物と私たちは、対峙しようとしないのだろう?私たちは、ただ毎日息を切らし

類は友を呼んだ。

先日、街で一人のじいさんと出会った。野菜を買おうとしてうろうろしている所に声をかけられた。そのじいさんとなんだか意気投合してしまって、一緒にランチをする事になった。 どんな些細な出会いでも、その出会いは必然だ!とよく言う。大切なのは、その偶然の出会い、ちょっとした出会いの中に何を見つける事が出来るのかだと。 私は人と会う時に、その人がどんな人であっても、その人との間に自分との接点を探す。自分と出会う人が皆、偶然ではなく必然だ!とそう言うのなら、自分の目の前にいる人間は自分

私たちには、力がある。(依存ではなく創造へ)。

もっとい色々な事を自分の頭で考えよう。私たちは、毎日考えるという事を少しずつ奪われている。何も考えなくてもいい様に、この社会はどんどんどんどん便利になっている。 私たちは、何も考えなくていいように日々され続けている。何かに注目させたり、新しいものを開発し、それに夢中にさせておけば、人間というのは、他の事を考える事はない。 私たちはいつも何かに関心を向ける様に仕向けられている。どうでもいい事に私たちの意識が上手く捕らわれる様に、この世界は作られている。 今のこの世界を見て

私たちは人生そのものが何たるかをこの口で語りながら、その人生が何たるかを知らない。

人生って、そんなに簡単な言葉では表現できない。私たちは一生懸命この人生ってやつを、綺麗な言葉を並び立てて、表現しようとするけれど、その私たちが様々なものを使って表そうとしているその人生とは、そもそも、私たちのもつ力では表現など出来ないものだったりするんじゃないだろうか? 自分の人生、それを自分の表現によってあらわす事が出来るなんてのは、人間の傲りだったっりするのかもしれない。自分の人生を、私たちは自分の持っている力で表現できるとそう思っているかも知れないが、実はこれが誤りだ

私たちは思考しているのではなく、ただ目の前の現象に反応しているだけ

私たちは、毎日何かを一生懸命考えている様に思えるが、でも、実際には意外に何も考えていなかったりする。 考えたり、思考した気になっているだけで、意外に私たちは何も考えていない。考えた、思考したってことに満足して、ただその行為している自分に満足しているだけで、頭の中は特に何も考えてはいない。 私たちは、ただ毎日自分の目の前に起こる色々なものから刺激を受け、ただそれに反応しているだけ。私たちはただ反応しているだけで、思考している訳ではない。 ある対象に対して、反応を起こしてい

私たちは、不安があるから壊れる。恐怖があるから壊れる。

毎日毎日、沢山の恐怖が私たちの生活に迫ってくる。その恐怖が、分断を生み、この世界はバラバラになってきているんじゃないだろうか? 私たちの生活とは、常に恐怖と隣合わせ。この恐怖が、この世界を分断させてきた事は間違いない。 個人の心にある不安や、恐怖心。これが、この世界を今ものすごい勢いで引き裂いている。どの人の心にも、不安や、恐怖というものはある。これをそれぞれの人が、自分で克服する事が出来なければ、この世界は更に拍車をかけて引き裂かれて行くのだろう。 私たちは、怖いから