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鬼滅の刃から学ぶ人間性と反人間性の境界

本当に今更ながら鬼滅の刃、漫画や公開されたアニメや映画見てみたら、
思った以上に面白い。

無限列車編で騒がれている時には何となく見る気がしなかったのですが、
もっと早く見とけば良かったと思います。

人間と鬼の戦いという単純な争いの構図として見ても楽しめましたが、
個人的に人間としてのあり方、鬼としてのあり方の描写が秀逸で、
学ぶところも多いなと感じられる作品でした。

こういう見方をすれば面白いんじゃないか、
こういう解釈をすれば学びが深まるんじゃないか。

ここではそういう面白さや学びを忘れないために自分の考えをまとめ、
言語化して残しておこうかと思う。

なお、あくまでもそういった個人的な視点や解釈、感想なので、
公式の設定などとは違う箇所もあるかもしれません。

また、内容を一通り知っていること前提の体で話すので、
ネタバレもありますから気をつけてください。


鬼滅の刃を語るうえで避けて通れない人間観


では本題。

まず鬼滅の刃という作品を端的に表すのであれば人間性と反人間性の境界、その揺らぎをうまく表現した作品だと解釈しています。

これについてはまず個人的に持っている人間観について話す必要がある。

人間とは意識と無意識という2面性、ある意味人格を持っているために、
常に自身の中で意識の価値観と無意識の価値観による衝突が起き、
揺らぎ定まりづらい性質を持った生き物だと考えます。

意識とは反自然的なもの、人間的な価値観だと言い換えても良い。

理性や倫理道徳、未来、規範など自然のようにありのままあるのではなく、
あるべき姿としてあることを目指すもの。

対して無意識は感情や衝動、反応、過去、欲や楽に突き動かされるままに、
自然に、動物的な本能に従ってあるがままにあることを目指すものです。

無意識は意識できない動きから生まれるので把握しづらいですが、
両者の基本相反する2つの価値観は常に自分という存在の中で衝突し、
最終的にどちらかの影響を色濃く受けた1つの意志を形作る。

つまり、ある意志が発露する過程で人は自覚的か否かに関わらず、
意識と無意識、どちらの価値観を優先させるべきかを選択している。

無意識は意識より影響力、持続力共に大きいので大抵の場合、
きちんと対策するなりしない限り無意識が色濃くなります。

それが言動に反映され現実に影響を与え何かしらの結果を残す、
結果からフィードバックを得て新たな価値観や思考を生み、
また新たな選択を行い意志を生み出しと。

それを人生を通じて何度も行いながら自分の中に確固とした軸を作り、
ある個人としてのあり方を確立していく。

それが人間という生き物であると考えてます。

と言われてもいまいち分かりづらいかもしれませんが例えば、
ダイエットのために食事制限することを考えてみるとわかりやすい。

痩せたいという未来で達成したい目的があり、
そのために食事をある程度制限する必要がある。

意識的には食事をある程度制限し食べないでいることが、
目的達成のためのあるべき姿であるとわかっている。

だけど無意識、動物的な本能は生きることを最優先に考え、
食べれる時に食べられるだけ食べるべきという価値観を持つ。

大抵の人は常時、その価値観に沿って行動したくなります。

ようは自分の中でダイエットのためにあるべき意識的な価値観と、
本能のままありたい無意識的な価値観が衝突するのです。

痩せたい、だけど食べたいという相反する2つの価値観の間で揺らぐ、
だけどいずれどちらかの価値観を選択し言動に反映させなければならない。

この時、食べないという選択をすることは意識的な選択である、
言い換えれば本能を抑え込む人間的な選択であると言える。

対して食べるという選択をしてしまえば人間的な価値観は、
無意識の動物的な本能に敗北した。

反人間的な状態を意味する。

で、先に話したようにこういう選択の積み重ねによって自分の中に、
徐々に確固とした自分の軸が形作られていきます。

人間的な選択を繰り返せば人間的な軸ができる、これを人間性と呼び、
反人間的な選択を繰り返せば反人間的な軸ができる、反人間性と呼びます。

人間的な選択をすれば人間性に強く影響を受けた軸ができ逆もまた然り。

食事制限で言うなら食べることを我慢し制限できれば、
目的のために時に欲や楽を乗り越えるという人間的な軸ができる。

制限できず食べたいままに食べ続ければ欲や楽を優先させ、
やるべきことをやりづらい反人間的な軸を形作るみたいな感じです。

鬼滅の刃における鬼とはどういう存在か


以上を踏まえたうえで鬼滅の刃の鬼とはどういう存在かと考えれば、
反人間的な選択によって人間性を失った者達だと解釈できる。

鬼となる者は大なり小なり現実の中で思い通りにならない何かにぶつかり、
意識的な価値観と無意識的な価値観の激しい衝突が起こります。

そこに鬼の血を与える何者かが現れ選択を迫る、
力が強く特殊な能力を持ち不老で驚異的な回復力を持つ。

手っ取り早くそんな存在となって人間性を捨て去っていく、
捨てれば捨てるほどに鬼として強くなっていく。

あるいはその前にすでに選択を済ませ鬼になっている場合もありますが、
言えるのはある選択の時に反人間的なものを選んでしまうということ、
その選択を繰り返し積み重ねる度に鬼として強くなるということです。

このことがよく分かるのは遊郭編で登場した上弦の陸、
妓夫太郎と堕姫のあり方。

2人で1人という鬼のなかでも特異なあり方をしていて、
両方の首を同時に落とさないと死なないわけですが、
敗北後に鬼の首魁である鬼舞辻無惨の評価から。

堕姫は足手まといで妓夫太郎1人の方がより強くなれたと言われている。

これは額面通り戦闘的に足手まといという見方もできる、
天元に一瞬で首を切られたり油断や慢心が過ぎるところがあり、
頭も回らず直情的になるなど力が強い子どもという感じだった。

ある程度力のある鬼殺隊員であれば、少なくとも柱レベルの実力者なら、
倒すだけならそう苦労しない程度の力しか持たないのでしょう。

ですが、それでも妓夫太郎と同時に首を切るというのは難易度が高い、
仮に堕姫だけが首を切られても妓夫太郎1人で戦えば良いわけで、
逆に妓夫太郎が首を切られても堕姫が生きていれば立て直しが図れる。

1人でも2人でも妓夫太郎の鬼としての強さは揺らがない、
むしろやり方次第では戦闘ではもっと強くなれそうですが、
先に話したように人間性を捨てる選択をするほど強くなる。

そう考えるのなら堕姫は鬼の妓夫太郎にとっては足手まといなんですよ、
妓夫太郎が堕姫に向けるのは兄弟愛、自分より妹を優先する心だからです。

自分がどれだけ悲惨な状態であろうとも妹を優先できる心、
それは意識的なもの、人間性へとつながるものです。

鬼という強大な存在となり非道を働き人間性を捨て去る選択を繰り返し、
心まで鬼になっていく中でそれでも堕姫を捨てされなかった。

故に、妓夫太郎は堕姫という存在がある限り鬼として極まれない、
それでも上弦になれるポテンシャルがあってだけど、
上弦の中では最も弱い存在なのだと解釈できる。

で、数字が小さくなるごとに人間性を捨て去り鬼として強くなる、
その頂点に鬼舞辻無惨という鬼の首魁が存在するわけですね。

鬼滅の刃において鬼殺隊とはどういう存在か


そんな鬼を狩る組織である鬼殺隊はそれとは逆の存在として描かれる、
様々な葛藤があってだけどそれを意識的な力で乗り越えて、
人間として良くあろうとする者達の集まりだと言える。

そして、その頂点に経つのが作品の主人公、竈門炭治郎だと考えられます。

炭治郎は人間性の頂点なのですね。

自分の家族を鬼に殺され妹の禰豆子を鬼に変えられるという境遇、
自分は偶然その場に居合わせられず後で事の次第を知るという無力感、
鬼との戦い、救えない命、柱など強者を前に募る自らの未熟への悔しさ。

そんな常人なら折れても仕方のないような状況にも関わらず、
その言動は人間性で満ちている。

兄として妹のために、家族のために自らを犠牲にすることも厭わない、
どれだけきつい状況でも兄だからで耐えることができる精神性。

人間として社会の中で生きていくために必要な倫理道徳観を備え、
例え理解し難くとも、時に敵である存在に対しても、
相手に寄り添い知ろうと考えられる思考傾向。

様々な葛藤に襲われ続けながらだけど意志を生むための選択は、
一切迷わず人間的なあり方を選び取ることができる。

人間性を持つ心として作中で最も極まっているのが炭治郎であり、
故に作品における役割は主人公よりかは導き手の方がしっくりきます。

それが垣間見えるのは無限列車編で無意識領域の中に入りこまれた時、
一面の青空とそれをありのまま映す水面。

この映すというのが炭治郎の本質、人間(善)性をありのまま映し出す鏡、
あらゆる葛藤を前に人間としてのあり方から正しい選択ができる。

故に、鬼殺隊の人間からは基本的に好かれるんですよ。

鬼狩りは鬼の被害にあった人間がほとんどで中にはそれ以外でも、
心に傷を負い苦しんでいる人が多いというかそういう人ばかり。

そういった苦しみや鬼殺隊としての役目などによって様々な葛藤があり、
時に負けそうになることもあるでしょう。

だけど炭治郎は絶対にそこで人間としてあるべき選択ができる、
自分もまた傷を負い妹を背負い葛藤に直面しながらも、
前を向いて歩いていく選択できる。

その姿は他の鬼殺隊からすれば、傷を負いながら人間としてあろうとする側から見れば、
葛藤の先にある暗闇と光、その内の光を指す道標としてこれ以上ないほどの存在なのですね。

自分では汚い、醜い、否定したいと考えるような側面も、
炭治郎は人間として光を差し込ませそれを良く際立たせてくれる。

だから最初は否定的な態度を取っても炭治郎と接する内に、
自らの葛藤の先にある光の側面を浮き彫りにしてくれるから、
人間であろうとすることを選択した人間であれば。

炭治郎は誰とでも仲良くなれる、受け入れられるのだと解釈しています。

炭治郎は人間性の頂点、無惨は反人間性の頂点


逆に鬼の首魁、反人間性の頂点であるのが鬼舞辻無惨であり、
一切の選択を何の葛藤もなく自分のために行える。

無惨以下の鬼は反人間的な選択を続け人間性を捨て去ってきたけど、
それでも自分と他者という世界観の中で生きてはいるんですよ。

上弦の陸、妓夫太郎は妹に対する愛がありましたし、
堕姫も兄を慕う心があった。

上弦の伍、玉壺は芸術を示す心、他人に自己を顕示したい欲があった。

上弦の肆、半天狗は自分に責任はない、悪いのは他人だという価値観、
自他があるからこその責任という概念を持っていた。

上弦の参、猗窩座は強さ、自他の比較が最も影響する価値観に執着した。

上弦の弐、童磨は本質は伴わず表面的で独善的ではあったけど、
他者へ対する救いや愛を言葉にすることができましたし。

上弦の壱、黒死牟は弟である縁壱との関係に最後まで苦しんでいた。

だけど鬼舞辻無惨だけは自他という概念が根本から存在しない、
自分だけがあり他の全ては自分に支配される存在だと考える。

言わば神、自然のような絶対的なものだと考えていた、
実際に鬼というか無惨の被害にあった相手に対して、
『大災に遭ったのと同じだと思え』という言葉を吐いている。

無惨には人間性、現実と自分、他人と自分、自分と自分という葛藤がない、
その葛藤につながる揺らぎ、揺らぎを生むための意識と無意識という、
人間として当たり前に持つ2面性が一切存在しない。

ただ自分という存在の欲や楽のためにあらゆるものに害をなすが故に、
人間性の頂点として描かれる炭治郎を持ってしても、
むしろ人間性の頂点だからこそ絶対に受け入れられないのが無惨。

ですから『お前は存在してはいけない生き物だ』と。

人間性の片鱗を見せた時に例え家族の仇の鬼の仲間であっても、
慈悲を示し理解しようとした炭治郎が存在を全否定したわけです。

なお鬼殺隊を運営している産屋敷家とその現当主である耀哉については、
あり方としては人間と言うより宗教における神などに近いと考える。

人間として現実を生きるというよりは高い視座から示す者、
人間社会というあり方を守るための存在であり、
そこには無惨とは逆の意味で葛藤がない。

炭治郎はあくまでも人間、葛藤があるからこその人間性の頂点ですが、
耀哉はそういう人間が生きるための世界を守るために、
あらゆる葛藤を持たず他者に対してはその人間性を全肯定できる。

だけど同じ産屋敷の一族に対しては使命のために、
時に冷酷にも思えるような態度を取ることもある。

まさに人間世界の神のようなあり方であり尊敬され仰がれることはあれ、
炭治郎のように心を導くことはできないと解釈しています。

と、ここまで鬼と鬼殺隊の全体像についてざっとお話してきました。

キーワードは何度もお話してきたように人間性と反人間性ですが、
では鬼滅の刃における人間性に影響を与える最大の要素とは何か?

生と死だと考えてます。

鬼の強さの最も大きな源泉となるのは生に対する執着であり、
生のためにのみあらゆる非道を選択できるその心根こそ、
反人間的であるように描かれている。

鬼の首魁である鬼舞辻無惨は完全な不老不死の存在として、
死のない世界にありたいというのがその根本にあった。

そして、そのための障害がいくつかありそれを乗り越えるために、
あらゆる反人間的な選択をすることを厭わなかったあり方こそが、
無惨が鬼として最強の力を持つことの証。

障害とは、1つは作中において唯一、
無惨を1人で殺すことが可能な継国縁壱。

縁壱と対峙し圧倒的な力の差を見せつけられた無惨は生きるために、
縁壱が死ぬまで逃げ隠れて暮らすことを選択した。

唯一勝っていた不老であるという性質を利用し、
人間としての縁壱が死ぬのを待ったのですね。

誇りも意地も何もないあり方ですが生きるという一点において、
完璧に合理的な選択であったと言えるでしょう。

その後、縁壱によって伝えられたあらゆる呼吸の型はあれど、
無惨に比肩する剣士は現れなかった、障害の1つを乗り越えたのです。

2つめは太陽の光。

鬼はすべからく太陽の光を浴びると死ぬ、それは無惨も例外ではなく、
その体質を何とか克服するためにあらゆる非道を行ってきた。

鬼を増やすというのもその1つでそもそも無惨は鬼を増やしたくなかった、
先に話したように無惨にとって世界は自分と自分に利用されるそれ以外。

自分は神であり他の全ては蹂躙されるもの程度にしか考えてない、
故に同胞とか仲間といった概念は無惨の中にはない。

無惨にあるのは自分かそれ以外かという究極の自己中心的な認識のみ、
それでも鬼を増やし続けたのは太陽を克服するかもしれない鬼を生み、
それを取り込んで自分が真の意味で不老不死の存在となるため。

そのために厄災を撒き散らし鬼を増やし人を殺し喰らい続けてきた、
そして炭治郎の妹、禰豆子が太陽を克服したことを知り、
物語は最終局面へと一気に突入していくわけですね。

以上のように無惨は死を避ける、人間であれば誰であれ必ず到達する、
死ぬという最後から逃げるためにあらゆる人間性を捨て去った。

生という一点のみが無惨にとって選ぶべき規範であり、
それ以外の全てを価値のないものとした。

生のためにのみ生きることが鬼滅の刃においては、
反人間性の極地として描かれているのだと思います。

故に、鬼殺隊はその逆として描かれる。

縁壱からしてそうですが人間である以上どれだけ強くとも、
老いていずれは死んでいく。

鬼という圧倒的な強者に蹂躙されることもある。

人生を通しても成すべきことを成せないことはある、
だけど人間として死を享受しながら進んでいくために、
最終的なあり方として死して何を残すかが重視される。

死ぬことは避けるべきものではなく死してなお何を残すかということが、
鬼殺隊において最も重要な価値観であり。

それがつまりは人間性であると考えられる、
死ぬとわかったうえでどのように生きるかを考えること、
考えることから逃げず今どのような選択をしていくか。

それが人間性の極地なのではないかと思います。

鬼殺隊と上弦の戦いは選択の差の描写


ここまでざっと鬼滅の刃の全体に流れるあり方の解釈をお話しましたので、
ここからは個別の戦いの描写を深堀りしていこうと思う。

主に鬼殺隊の柱と上弦の戦いについて。

両者の戦いは人間性を決定づける選択において、
その先の差を対比するように描かれていると思います。

まず無限列車編での炎柱、煉獄杏寿郎と猗窩座の戦い。

猗窩座は鬼になる前、卑劣な手段で所属していた武術道場の師範慶蔵と、
その娘であり恋仲だった恋雪を殺されてしまう。

恋雪を守るため、道を示してくれた慶蔵に報いるため強くあろうとして、
だけど両者を死なせてしまい無力感に苛まれることで。

その復讐のために人を傷つけるために使わないと決めた、
武術でもって67人を惨殺するという事件を起こします。

ようは、猗窩座は恩人や愛した人間を失ったという現実を前に、
力によって相手を殺し復讐するという選択をしてしまった。

守るものを失い自分が定めた意識的な人間性すらも捨ててしまい、
それ故に無惨に目をつけられ殺されると同時に鬼に変えられたのです。

実際、無惨が猗窩座の前に現れたのは鬼を配置してないにも関わらず、
まるで鬼が行ったような凄惨な事件の話を聞きつけたから。

もし猗窩座が辛い現実の前であってもなお恩人や恋人の心を汲み、
少なくとも力による安易な復讐を踏みとどまっていたのであれば、
鬼になることはなかったでしょう。

描写としての結果論ではありますが猗窩座が鬼となったのは、
現実を前に安易な選択をしたが故のもの。

なるべくしてなったと考えて良いと思います。

それに対比するように描かれるのが映画で一気に知名度が上がった、
炎柱の煉獄さんですね。

煉獄さんは人間としては才能ある強い剣士であった、
猗窩座から見ても極まった人間だと評価されていた。

そこで猗窩座は問いかけるわけです、『お前も鬼にならないか』と。

鬼になればいくらでも強くなれる、傷つくことも老いることもなく、
あらゆる人間的なしがらみ、葛藤から開放されると誘惑する。

だけど煉獄さんは一切取り合わず戦いに突入しますが、
やはり人間としての強さであり自分が傷ついていく中で、
即座に回復する猗窩座を前に徐々に劣勢に回っていく。

そして改めて鬼にならないかと誘うわけですがそれでも、
一切迷いなく自分はならないと断言する。

『おれの責務をまっとうする』ことを選択するわけです。

その根底には死の淵にあった母からの最後の教え、
才あるものは弱きものを助けるものという価値観。

そして強く優しい子の母になれて幸せだという言葉があった。

だけど人間として鬼と対峙する中で無力感を覚えることもあったでしょう、
それは最後の時、まっとうできたかを問いかける言葉に詰まっている。

自分は強くあれたのか、母の言葉通り責務をまっとうできているのか、
常に迷い苦しみながらそれでも人間として強くあろうと選択し続けた。

猗窩座と煉獄さんは強さ、無力感による葛藤が軸の対比になっています。

ちなみに太陽が出るまで時間を稼ぎ撤退させることには成功した、
逃げる猗窩座を前に炭治郎は逃げるなという言葉を叫ぶ。

煉獄さんは乗客を、皆を守り抜いた、使命をまっとうした、
逃げずに立ち向かった立派な人だと泣きながら叫ぶ姿は、
間違いなく煉獄さんの心を救ったと思うのですね。

先に炭治郎は人間性の頂点であり葛藤の先にある人間性につながる選択、
そこに光をあて際立たせることができるとお話しましたが、
あのシーンはそのことをしっかり描いていたと思います。

だから煉獄さんは最後に全てを託して笑顔で逝けた、
死してなお残るものがある、先につながるものがあると確信したから。

鬼滅の刃における人間性の極地、究極の美徳を体現したと解釈しています。

次に妓夫太郎と音柱、宇髄天元。

この2人は生まれによる理不尽による葛藤が軸になっている。

妓夫太郎は色街で生まれ美しさが全てという価値基準の世界の中で、
その醜さから迫害され両親からも虐待を受けて育った。

それでも何とか生きた妓夫太郎にある日、梅(堕姫)という妹ができた、
自分とは違う美しい妹を誇りに感じながら自分の喧嘩の強さを知り、
借金の取り立て屋として生活することになる。

ですが、ある侍の不興をかった梅は生きたまま丸焼きにされ死にかけ、
妓夫太郎も金のために侍に売られ切られてしまう。

切られながら侍を逆に斬り殺した妓夫太郎は理不尽な現実を嘆き、
童磨と出会って鬼になり理不尽に取り立てる側に回った。

唯一愛していた妹も失いそうな理不尽な現実を前にして、
それを受け入られず人間性を捨て去る道を選んだ。

対して、天元は忍の家系に生まれ厳しい修行の中に身を置いていた、
それは自分を含め9人いた姉弟の内、わずか2人しか生き残れないほど。

生き残った天元の2歳年下の弟は修行を課した父親の期待通りに、
忍びとしてのあり方を忠実に体現していた。

天元いわく『部下は駒、妻は後継ぎを生むためなら死んでもいい、
本人の意志は尊重しない、どこまでも無機質』。

天元自身はそんな人間にはなりたくないと思っていた、
だから忍びの掟でくノ一の妻を3人娶った時に、
命の序列としてまず妻があり。

堅気の人間がいて最後に天元だとはっきり口にしていた。

妻は後継ぎのためなら死んでもいいという忍びの価値観の中で、
それに真っ向から反する価値観を持って父や弟とも絶縁し、
人間らしく生きようとしていた。

ですが天元は修行の中で知らなかったとはいえ姉弟を自ら殺していた、
絶縁したとはいえ家族は家族でありまた忍びの価値観の中で生きた。

忍的な無機質なあり方によってしてしまったこととありたいあり方の間で、
葛藤し苦しみそれでもあるべきあり方につながる選択をしてきたのです。

どちらも生まれとそれによる理不尽な苦しみを体験しながら、
姉弟や妹を思いだけど失う、失いかけるという経験をしながらも、
それを飲み込み逃げ出さず現実に立ち向かった者とそうでない者。

その対比を描いのが遊郭編であったと思います。

と、この調子で他も書いていくとかなり長くなりそうなので、
ここまでとしますが他の上弦と柱の間にも葛藤による対比があります。

そういう視点で改めて見てみると面白いと思いますよ。

鬼滅の刃は人間性と反人間性の揺らぎを学べる作品


最後にまとめると鬼滅の刃は人間性と反人間性の揺らぎを極端に描き、
人間としてのあり方やあり方につながる選択の対比を学べる。

そんな作品だったと個人的には思います。

先に話したようにどんな人間にも意識と無意識は必ず存在する、
自分が自覚しているか否かに関わらず選択は行われている。

現実に鬼滅の刃の鬼のように極端なあり方はないでしょうし、
それぞれの身に起こった凄惨すぎる出来事もそうないでしょう。

だけど、誰であれ少なからず現実を前に、
様々な葛藤を感じるものだと思います。

繰り返しになりますけどそういう葛藤を前に自覚的か否かは関係なく、
意識的な側面と無意識的な側面の間で価値観の揺らぎが起こり、
何かしらの選択をするのが人間という生き物のあり方です。

大事なのはそういう選択を自覚的、能動的に行えるかどうかだと思う。

無意識は言葉通り意識がない領域、故に自分が意識できない内に、
大きな影響を選択に与えていることは十分にあり得る。

自分では意識的に選んだと思っていることが無意識に支配されている、
そんなことは珍しいことではない、むしろその方が普通なのかもしれない。

だけど知らなかったとはいえ選択は自分の中に積み重なり、
いつしか大きな軸となって変えがたい大きなあり方を生む。

それが鬼に近いあり方なことだってあるかもしれない。

自覚したうえで鬼のような、反人間性を積み重ねる道を選ぶなら、
言えることは何もないでしょう。

ただ鬼滅の刃の鬼のように強大な存在に現実ではなれないのですから、
大抵の場合は人間社会から排斥される道をたどることになるでしょうが。

それを理解してなお選ぶのなら繰り返しになりますが言えることはない、
だけどそうじゃない、少なからず人間としてのあり方を求めるのであれば。

葛藤に苦しんだ時に意識的な選択を行うことが大事になる、
それをうまく描写しているのが鬼滅の刃という作品。

そういう視点で改めて見直してみると得るものがあるのではと思うので、
ぜひ試してみてもらえればなと思います。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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