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#146 あなたの絶対的価値を決めるのはあなたでも周りの誰かでもない③


イースターマンデーです。
引き続き書いていきますね。
もしお読みになっていなければ先にこのふたつを読んでいただけると話が早いです。


本来の価値基準に立ち返る


昨日のこの章の続きからお話したいと思います。

5つの領域での価値判断で、「人との比較」を基準にしていたら、負のループにハマることはもう明らかです。
S先生はこう言われました。

Our goal is to love people, not to be loved.

「私たちのゴールは人から愛されることでなく、人を愛することですから」


頭をガツンと殴られたような気がしました。


S先生の導きはここまでです。
今日の記事は、私がそこから感じた諸々のこととなります。


我が子への願い



長女が1歳になる月のことを思い出しました。27年前、日本に住んでいた頃のことです。
地元の新聞に『今月初誕生を迎える赤ちゃん』が一面全体を飾ったページがありました。月に一回、その月に一歳を迎える可愛らしい赤ちゃんの顔がワーッと並ぶのです。
当時夫は、新聞社主催のカルチャースクールで教えていたことから、本来一万円の一枠を娘の初誕生のお祝いにいただきました。
そこに載せていただいた娘の写真に添えたひとことメッセージ。
それがこんなものでした。

「かみさまけんこうなからだをありがとう。みんなからあいされるひとになりますように」

クリスチャンではなかったけれど、私たち人間は神様に創っていただいた、とその時から思っていたということになりますね。

字数制限があったので、もしかしたら40文字だったのでしょうかね‥‥
夫はイギリス人ですから、これは日本人の私の書いた文面でした。
夫に翻訳して伝えたら、それでいいよと言ったのだと思います。


一見間違っていないような、普通にありそうな親の想いでした。
私なりにこだわった、感謝と祈りの両方を込めたメッセージでした。
けれど、これがとても間違っていたと今ならわかるのです。

この言葉通りに娘を育てたら、この子にとって自分の価値は、「どれだけ周囲から愛されるかによって決まる」そんな呪縛になったかもしれないと思います。


自分が信じていた価値



実際、私自身が「人から愛されている感」というものに執着していた人間でした。
いちねんせいになったら、ともだちひゃくにんできるかな~♪
という歌があります。
それが素敵なことだとずっと思っていました。

結婚した時、私たちはキリスト教教会に式をお願いし(信徒でもなかったのに不思議です)、披露宴も親兄弟と友達だけでレストランで会費制でパーティーをしました。
招待状や報告の手紙を準備した際に、それまでの人生で『ともだちひゃくにん』本当にいてくれたんだと実感したのです。
私に誇れるものがあるとしたら、こんなに多くの友達だ。その時そう思いました。
だから娘にも同じように、人との繋がりに恵まれてほしかったのだと思います。

人から愛される、ってとっても嬉しいことです。
でも、人に愛されることが自分の価値になっていたら、人が周りから居なくなった時、自分に価値を見出せるでしょうか?

自分が愛されるかそうでないかは、相手が決めること。自分でコントロールできませんから、軸は自分の外にあると言えます。

一方、S先生が思い出させてくれた、人を愛することの大切さですが、
愛することは自分で選択できるのです。


SNSに、自分の存在意義を見い出す危険

5つの領域のなかの⑤番目に挙げた『社会性』について、S先生は
「今の時代、一番大きなことと言ってもいいかも‥‥」と言われました。

SNS全盛の今、ほかの人がどれほど愛され、人と繋がっているかを、嫌でも見てしまいます。
妬み・羨望の気持ちを抱いてしまうこと、 私には分かります。
他人の社交生活や人気度、あの人もこの人を慕っている‥‥なんてことを手に取るように知ってしまうのです。
自分とは離れた外の世界から認めてほしくて、行動すべてが発信のためになったり、承認された数に一喜一憂することにもなりかねません。
そのような承認欲求と、「みんなからあいされるひとになる」ことのどこか違うでしょうか‥‥?


「あなたは、神様を知らないで、子育てができると思いますか?」

私が神様を知ったのは33歳のことでした。長女が4歳、長男が2歳になっていました。

心の経緯については長い物語があり、ここでは触れませんが、影響を受けた言葉がありました。先輩お母さんであった、クリスチャンの女性のものです。
その方の言われた言葉がずっと私の心から離れませんでした。

私が若いころね、ある方からこう言われたの。
「あなたは、神様を知らないで、子育てができると思いますか?」って。
それがずっと心に残ってて、自問自答したのが始まりだったの。

その言葉でその方は求道しクリスチャンになったのですが、同じ言葉で私までまんまと釣られたわけです。
そのくらい大きな問いかけであり、言葉に力があったと今でも思います。

さて、そのようにして知ることになった聖書のなかのイエス様ですが、その教えはことごとくこの世の価値観とは異なりました。 神様の国における価値基準に出会うと、既成概念がくつがえされました。
まさに目から鱗が落ちるのです。("目から鱗"の語源は新約聖書、使徒行伝第9章にあります)


World Value (この世の価値) から Kingdom Value (神の国の価値)へ

前回の記事で私たちの価値を評価する5つの領域に触れました。

自分の①容姿を、②学歴を、③社会的地位を、④仕事の出来を、そして⑤人気度を人と比べることによって、自分の価値を決めちゃっていいんですか?

もちろん、そんなの意味がないと気づいていても、人間だから「気になる」のです。
私たちが人と比べることから100%自由になれることなど、ないのかもしれません。
ですが、誰が何と言おうと、私たち一人一人が神様からカスタムメイドされた尊い存在であることを、私は信じます。
そこに揺るがない信念があれば、子どもは『自分が生きているだけで絶対的に価値がある』と知るようになると思っています。

私は失敗をたくさんしてしまった痛い親です。

そんな奴が、またガツンとやられた言葉を、心でずっと反芻はんすうしています。

子どもには、誰からも愛される人になれと教えるのでなく、「人を愛する」ことを教えたいです。
そのためには、私が愛されようとするよりも、「自分から愛す人」になりたいです。

‥‥『分かち合い』とか言いながら、説教くさかったなと思われましたら、
ああ、コノエミズは忘備録を残したかったんだな、とご理解くださいませ。




 度々ご紹介しましたが、イースターなのでもう一度。
歌詞を読みながらお聴きくださると嬉しいです。イースターの一連の出来事が一曲に詰まっています。



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