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#144 私たちは自分の価値を何から判断しているのだろう‥‥①


イースターの週末です。キリスト者にとってはとても大切な数日間。


時々noteにおいて自意識過剰になって思うことがあります‥‥


noteの皆さんは、
私がクリスチャンでありながら聖書の話をしないことに安心し、説教くさい話を始めたらもう読むのを止めよう、と思っていないだろうか‥‥
あるいは逆に、クリスチャンのくせになんでもっと信仰の話やクリスチャンとしての価値基準で書こうとしないの?と思わないだろうか‥‥と。

でもそれはすべて私のなかの、キリスト者としての conscience (良心) による勝手な妄想だと知っています。自分の存在価値への不安と言ってもよいでしょうか‥‥

私は俗に言う Bible basher (聖書をバシバシ叩きつけるみたいに、アグレッシブに教典を押し付ける人) のような振る舞いには敏感です。
なぜなら私は他宗教もあっていい、それぞれが認め合って尊重し合えばいいと思っているからです。
そんな日本で生まれて育った『和』の精神を理解しない人は、ここ英国の私の日常にはたくさんいます。
同じ言葉で話しているつもりでも、根本のところがズレ合っている居心地の悪さも感じています。
傲慢に聞こえるかもしれないけれど、『神様と私との関係』をジャッジできる人は神様以外にいないのだから‥‥
そんな想いを抱いて生きています。信仰に立っているのかいないのか、よくわからないようなグレーゾーンを。
キリスト教を知らない人に、福音を伝える自信もなく….

きっと宙ぶらりんで、熱くも冷たくもない、ぬるま湯のような奴です。ある種の熱いクリスチャンにとっては一番我慢ならない奴かもしれません。

いつか話すかもしれませんが、私がイエス様に出会ったのは神様に私の罪を赦していただくしか、生きるすべがなかったからです。

神様への愛と感謝がありながら、時に失望や疑惑のようなものが出たり消えたりしています。
そんな生身の人間です。
私が聖書から学んだことをシェアしようとしてこなかったのは、私がそんなだからです。

ところが、今日はイースターということもあり、最近胸に響いた事がらをみなさんと分かち合いたくなりました。

私には、アメリカ在住の牧師さんから隔週で一時間、Zoomで対話できるという、とても贅沢な時間があります。
アメリカのS先生とフィンランドのYちゃんとイギリスの私、3つの拠点から、一つの画面で1時間おしゃべりをして、最後に祈り「また再来週!」と言って終わります。

人は本来、神様からどんな価値基準を与えられた存在なのかについて、つい先日考えさせられたことです。
私にはとても意義のあったことだったので、できれば最後まで読んでいただけると嬉しいです。

なぜこの世に負のパターンが蔓延はびこるのか?

最初にこんな質問をされました。
この世で自分の価値を見出せない、劣等感、自己否定、メンタルヘルスの問題など、数えきれない負の価値判断をしてしまう‥‥
これは何が問題だからと思いますか?

S先生のこの問いかけから始まりました。

もともとの性悪説はエデンの園でのアダムとイブの犯した過ちから始まります。私がそういう話かと思い、一生懸命答えていましたら‥‥

「いや、一言で言いきれるかもしれない。簡単なことなんだけど」と言われてしまいます。
「それはね、人と『比べる』からなんだ、と私は気がついたんだよ」
そんな答えが返ってきたのです。

長くなるので、2つか3つの記事として続けて投稿します。
次回は、
『私たちの価値基準を作る5つの領域』について続けます。

私たちが人と自分を比べずにはいられない、5つの分野ってなんだろう?

それを考えてみてくださいね。

私のこんな話に興味があるかどうか、スキクリックの有無で教えてくださるとありがたいです。

それでは次へ‥‥





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