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#145 どうして私たちは誰かと比べずにはいられないのだろう‥‥②


それでは前回の記事から続きます。


『この世的』私たちの価値基準を作っている5つの領域


S先生はこのような質問をされました。

私たちの価値は、いつも誰かと『比べる』ことで決められていないだろうか?
私は5つの領域に分けてみたんだ。
世の中と比較して価値基準が作られるのはどんな領域においてだと思う?

Zoomでお互いの顔を見ながら、私は思いつくままを口にしてみました。

① Appearance 外見


私の最初の答えは、見た目でした。
顔・体型の美しさ、身長の高さであったり、筋肉を意識したり、タトゥーを入れてみたり。
人は見た目にこだわります。なんといっても第一印象で決まるわけですから、インパクトは瞬間的でもあります。
そして人は誰かと比べて、自分のほうが鼻が高いとか身なりが良いと思って優位に立ったり、誰かを見下したりすることがあります。
逆に、洗練された人の前で委縮したり、自分が劣っていると卑屈になったりもします。
私たちは常に無意識のうちに人の外見をジャッジし、自分の立ち位置を確認していると思います。
もう語るまでもないほどに、いかに外見が人の価値を左右しているか、私たちは知っています。
良いとか悪いとかの問題以前の、生き抜くための本能みたいなものかもしれないと思うのです。

② Education 教育


そしてこれ、学歴です。知性・教養です。
これもすごく嫌なことですが、人と比べる要素で間違いないと思います。

教育は大切なことだと誰もが知っています。
貧富に関わらず、みんなが等しく教育を受けられる世界であることを望みます。
だからと言って、高学歴の人が偉いわけでも、進学できなかった人が人として劣るわけでもありません。
教育は、人がより良く生き、良い社会を作るためのものであるのに、どうして人は上下を作りたがるのでしょう‥‥

自分も親として、子どもたちにものすごく余計なことを言っていたのではないかと気づきました。
子どもたちは皆、進学校に行ったので学校が自然と勉強をさせてくれました。夫も私も、子どもがお友達と比べて拍子抜けするくらい教育熱心ではない親でした。
子どもの進路はすべて彼らの意志に委ねたつもりでいました。
ところが全く無意識で、「T君はどこの大学で何を勉強するの?」とか、(いつも驚異的に優等生の)「F君は今回も一番だったの?」とか、
そんなどうでもいいことを口にしていたことを思い出したのです。

子どもたちの成績にこだわったからではないのに、つまらないことを訊いてしまったのは、比べずにはいられない好奇心だったと思うのです。
親の無意識とは本当に恐ろしいと思わされました。親が口にすることは「価値観」として子どもに植え付けられるという自覚を持つべきだったと反省しきりです。

③ Social status 社会的地位


続いてはFinancial success (経済的成功) ?と言った私に、S先生はお金もそうだし職業、役職も全部含めて、の社会的地位と表現されました。

確かに。
この世が評価するように、大きな家や車、収入の高い職業や裕福であることで判断されたら、私たち夫婦はなんと冴えない親であったか、と頭を抱えるしかないでしょう。

幸い、我が家の人間は社会的地位よりも世の中には大切なことがあると知っています。
親が子に残してやれるものは物理的な富だけではないと、負け惜しみではなく思うのです。
しいて言えばこの③が私にとっては一番気にならない領域かもしれません。


④ Performance 生産性

じゃあ4つ目はなんだろう?と訊かれて、そろそろネタが尽きていました。
なに?健康?違うか。
持っている物?とYちゃんが言ったら、物理的なものは③の社会的地位に含まれると言われます。
そこでS先生が持ち出されたのは「生産性」。効率の良さなんかのことだと思います。
ああ、わかるわかる。ある頃の自分を思い出すと、「仕事が出来る人」が世界中で一番羨ましかったのですから。
いつもいつも同僚の○○さんや△△さんと自分を比べては、我が身の不甲斐なさに身悶えしたのです。こんなに仕事のデキない人間は生きてる価値がない‥‥とさえ思っていました。

今振り返って思えば、仕事の出来る出来ないで人の価値が決まるって悲しすぎますね。
私はただでさえ自信を喪失すると言われる更年期に、それでも毎日特別支援の要る子どもたちのために、必死で働いていたのです。
本当はそれだけで尊いことでした。ただ、私が『比べて』しまったから、苦しくて苦しくてたまらなかったのでした。


⑤ Sociability 社会性 


最後の5つ目はなんでしょう?
うーんうーん、と首を捻りましたが出てきませんでした。

「おそらく、これが今一番大きいことなんじゃないかと思うよ」とS先生。

「Sociability」というのは仮の表現だそうです。ちょっと一番ピッタリくる言葉が浮かんでいないのだとか‥‥

この社会性についてもう少し説明すると、それはみんなから愛されたい気持ちであり、社会的に認知されたい気持ちです。
人はひとりでは生きていけません。誰もが周りから受容されたいのです。

Facebook、Instagram、Twitter‥‥、このnoteだってそうです。私たちはみんな承認欲求から逃れられないと思うのです。
人と自分を比べ出すと、スキやいいねをたくさん貰っている人と比べて自分に価値がないと感じてしまうかもしれません。
フォロワーやスキの数を獲得することが自分の存在価値の証明だとしたら、それはどこかでなにかが間違っているでしょう。

心理学者アドラーが指摘した『共同体感覚』というのを思い出しました。
人間は共同体に属して生きるものです。だから他者への貢献が私たちの生きる喜びになるのでしょう。
アドラーの言ったことが、この社会性の大切さを裏付けているように思いました。
アドラーもまたクリスチャンでした。


本来の価値基準に立ち返る


この話題は、ここに結論を書くまでもなく、それぞれの領域で人と自分を比べてしまうことが、いかに間違いであるか教えてくれたと思います。

『この世的』価値観にのっとることがどんなに不毛なことかと思わされるのです。人と比べて得られるのは、優越感か劣等感、あるいは不安か安堵、それだけです。

私たち一人一人の絶対的存在価値が腹に落ちれば、周りに振り回されることがなくなるのだと思います。
まずは創造主であられる神様を知ることから始まります。


長くなったので、一度寝てからこの続きを書こうと思います。


「けんこうでみんなからあいされるひとになりますように‥‥」
これは、一歳だった娘に宛てた私のメッセージでした。間違っていないようで、とても間違っていた、そんな話になります。

それではまた。




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