見出し画像

太宰治の「富嶽百景」と井伏鱒二放屁事件

 僕が太宰治のエピソードの中で好きなものの一つに「井伏鱒二放屁事件」というのがあります。

 太宰は1935年に虫垂炎と腹膜炎を併発し、患部の疼痛を鎮静するために用いたパビナールの依存症になってしまい、各方面に借金を重ね、奇行を繰り返し、周囲の信頼を失っていきます。本人はその頃の夫人である初代には「井伏さんに言うのはもう2、3日待ってくれ。自分の体の始末は自分でつける」と言い、親友の山岸外史には「パビナールくらい自分で抜いてみせる」と豪語していたそうですが、状況は改まらず、周囲は心配して太宰を説得し武蔵野病院に入院させます。

 この時太宰は武蔵野病院での療養を胸部疾患のためのサナトリウム生活だと信じ込んでいたようで、実際に入院したのが重度の精神疾患者のための閉鎖病棟であったことに大変な衝撃を受けます。自分は正気なのに異常者だとみなされた、人間の権利を剥奪されたと退院後すぐに山岸外史に語っています。この逆恨みとも取れるような悲痛な衝撃が退院後すぐに発表された「HUMAN LOST」という作品になり、更に晩年には「人間失格」という代表作に結実していきます。

 入院も太宰にとって痛手でしたが、退院後にはさらに、入院中に初代が義弟の小舘善四郎と肉体関係を持ったことを告白されます。自分は初代の着物を質に出してでも私娼街に通っていたような太宰ですが、この時は「倫理は許せるが、感覚が許せない」とどうしても耐えることができず、初代を伴って水上温泉に向かい心中を図ります。しかしそれも失敗し、結局二人は別れることになります。この心中を題材にした「姥捨」という作品があります。

 このように1935年から37年(26歳から28歳)までは太宰にとって本当に散々な期間で、勿論それまでの放埓な生活がそうした事態を招いたことは間違いありませんが、しかしこうした生活の中でも小説を書くことを止めなかった太宰を井伏鱒二は見捨てませんでした。太宰の才能と人柄を愛していた井伏は、太宰の入院を説得する嫌な役割も引き受け、初代と別れたあと取り巻きに囲まれ自堕落な生活をしていた太宰を、当時自らもそこで執筆をしていた山梨県の御坂峠に招きます。そうして新しい作品の執筆に専念させ、また、次の夫人の縁談も取り持ちます。至れり尽くせりと言えるでしょう。この御坂峠での文学者として、生活者としての再生を目指した日々を書いたのが、現在では高等学校の国語の教科書にも掲載されている太宰治の代表作の一つ「富嶽百景」です。

 その「富嶽百景」の中に、太宰治が井伏鱒二と三ツ峠に富士山を見に行く場面があります。少し長いですが引用します。

 私が、その峠の茶屋へ来て二、三日経って、井伏氏の仕事も一段落ついて、或る晴れた午後、私たちは三ツ峠へのぼった。三ツ峠、海抜千七百米。御坂峠より、少し高い。急坂を這うようにしてよじ登り、一時間ほどにして三ツ峠頂上に達する。 (中略) とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁に立つてみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた。

太宰治「富嶽百景」

 この「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた」という記述について、井伏は「事実無根である」と言います。また竹下康久という人から太宰に対してこの記述の取り消しを求めるように促す手紙を受け取ったそうです。その時の模様を書いた井伏の「亡友 -鎌滝のころ-」という随筆から手紙の内容を引用します。

「自分は貴下が実際に三ツ峠の峰に於て放屁されたとは思わない。自分の友人もそう云っている。自分は太宰氏の読者として、また貴下の読者として、貴下が太宰氏に厳重取消しを要求されるように切望する」

井伏鱒二「亡友 -鎌滝のころ-」

 個人的には、この竹下康久という人も実際に太宰や井伏と三ツ峠を訪れていたわけではないし、友人もそう言っているというのは事の真偽には関係の無いことで、一方的な思い込みで随分語気の強い手紙を送るものだなと思いますが、当時の熱烈な文学青年というものは作家に対して現代よりよほど尊敬心が強く真面目だったのだろうと思います。

 さて井伏は太宰が訪ねてきた際にこの手紙を見せて、僕は放屁をしていないと抗議します。

「どうだい、よその人でも、僕が放屁しなかったことを知ってるじゃないか。こんな行きとどいた手紙を書く人は、きっと物ごとに綿密なんだね。理解ある人物とはこの人のことだね」

井伏鱒二「亡友 -鎌滝のころ-」

 先ほど述べたようにこの竹下康久という人は憶測で書いているのに過ぎないのですが、それを自分が放屁をしていないという事実の補強というか、説得に使うこの言い回しはさすが井伏鱒二です。思わず笑って非礼を詫びてしまいそうなところですが、そこは太宰治です。一筋縄ではいきません。太宰は「僕が嘘なんか書く筈ないじゃありませんか。たしかに放屁しました」と言って腹を抱えるようにして大笑いし、わざわざ敬語に改めて「たしかに、放屁なさいました」と言い直しました。それだけではありません、「たしかに、なさいましたね。いや、一つだけでなくて、二つなさいました」とおならの数を足すのです。こんな大胆な言い逃れ方があるでしょうか。そして駄目押しのように「微かになさいました。あのとき、山小屋の髭のじいさんも、くすッと笑いました」と言い、また大笑いしました。

 ところが、この最後の「髭のじいさんも、くすッと笑いました」というのは明確に違うと井伏は反論します。山小屋の髭のじいさんというのは当時既に八十何歳かで耳が遠くなっており、微かなおならの音など聞き取れるはずがないというのです。しかし、何度訂正を求めても太宰は決して譲らず、しまいには井伏も実際に放屁したと思うようにさえなったといいます。

 このエピソードは井伏の中でよほど印象に残っているのか、または太宰との思い出の中での所謂鉄板というか、お得意の笑い話だったのかもしれません。太宰の死後に太宰について書いた文章の中で何度も登場します。今僕の手元にある本だけを見てもこれだけあります。

「亡友 -鎌滝のころ-」
「御坂峠にいた頃のこと」
「惜別 太宰治」
「憎めない”演技の人”太宰治」(伊馬春部との対談)
「解説(太宰治集上)」

 最後の太宰治集の解説については、井伏がその縁談を取り持ち、そして「富嶽百景」にもその出会いの場面が書かれている太宰の二人目の夫人、津島美知子の手記を引用する形でこの事件に触れています。

 三ツ峠で「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草をすいながら、放屁なされた」という一条は、氏の御抗議が出まして、問題になりました。治は、「たしかにこの耳できいた」と言いはっていましたが、もし、太宰の作り話であったとしたら、申訳ないことでございます。

井伏鱒二「解説(太宰治集 上)」

 死後も奥さんの手を煩わせて……と思わないこともありませんが、実際あの場面は井伏が放屁する描写を入れることで、峠を登った末に霧で富士山が見えなかった残念さというか、倦怠感が断然際立っていると思います。太宰と師匠である井伏の関係性についても、厳格な師匠と弟子というよりも親子のような親しみのあるもののように感じられますし、小説としては是非とも必要な脚色だっただろうと僕は思います。

 しかし飄々とした言動とは裏腹に、井伏としてはやはり不愉快な出来事には違いなかったのでしょう、この一件の後、太宰に対して「今後もうぼくに関することは善悪にかかわらず、作品についても人間についても一切書いてくれるな」という手紙を出し、太宰からも今後は一切書かない旨の手紙を受け取ったといいます。

参考文献

井伏鱒二『太宰治』筑摩書房
井伏鱒二『風貌 姿勢』講談社文芸文庫
井伏鱒二『井伏鱒二対談集』講談社文芸文庫

この記事が参加している募集

#読書感想文

187,975件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?