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太宰治と棟方志功--「善蔵を思う」に書かれた衝突

 小説家、太宰治と版画家、棟方志功は共に青森県出身で、太宰は明治四十二年(1909年)北津軽郡金木村に、志功は明治三十六年(1903年)青森県青森市に生を受けました。年齢も場所も、自然に出会うには少し離れていますね。

 ところが、太宰は意外と早く志功を知ることになります。中学二年生の頃、花屋に飾られていた志功の洋画に感心した太宰は、それを購入して寄宿先の主人に贈ったそうです。昭和十六年(1941年)一月十一日に発行された「月刊東奥」新年号に太宰が発表した「青森」という随筆にその時のことが書かれています。

 私が中学の二年生の頃、寺町の小さい花屋に洋画が五、六枚かざられていて、私は子供心にも、その画に少し感心しました。そのうちの一枚を、二円で買いました。この画はいまにきっと高くなります、と生意気な事を言って、豊田の「おどさ」にあげました。おどさは笑っていました。あの画は、今も豊田様のお家に、あると思います。いまでは百円でも安すぎるでしょう。棟方志功氏の、初期の傑作でした。

太宰治「青森」

 その後太宰と志功の間に交流があったわけでは無さそうですが、少なくとも学生時代の太宰は一方的に志功を知り、少なからぬ敬意も持っていたのではないかと思われます。

 そんな二人が初めて顔を合わせたのは、昭和十四年(1939年)九月二十日に日比谷公園松本楼で開かれた「月刊東奥」主催の「『ふるさとの秋』を語る青森県出身在京藝術家座談会」にそれぞれ招待され出席した時のことです。

 その日のことは昭和十五年(1940年)四月一日発行の「文藝」四月号に太宰が発表した小説「善蔵を思う」に詳しく書かれていますが、この二人の初対面は思いのほか苦々しいものになってしまったそうです。

 自己紹介がはじまっている。皆、有名な人ばかりである。日本画家、洋画家、彫刻家、戯曲家、舞踏家、評論家、流行歌手、作曲家、漫画家、すべて一流の人物らしい貫禄を以って、自己の名前を、こだわりなく涼しげに述べ、軽い冗談なども言い添える。私はやけくそで、突拍子ない時に大拍手をしてみたり、ろくに聞いてもいない癖に、然りとか何とか、矢鱈に合槌打ってみたり、きっと皆は、あの隅のほうにいる酔っぱらいは薄汚いやつだ、と内心不快、嫌悪の情を覚え、顰蹙なされていたに違いない。
(略)
私の番が、来た。私は、くにゃくにゃと、どやしつけてやりたいほど不潔な、醜女の媚態を以て立ち上り、とっさのうちに考えた。
(略)
「K町の、辻馬……」というには言った積りなのであるが、声が喉にひっからまり、殆ど誰にも聞きとれなかったに違いない。
「もう、いっぺん!」というだみ声が、上席のほうから発せられて、私は自分の行きどころの無い思いを一時にその上席のだみ声に向けて爆発させた。
「うるせえ、だまっとれ!」と、確かに小声で言った筈なのだが、坐ってから、あたりを見廻すと、ひどく座が白けている。もう、駄目なのである。私は、救い難き、ごろつきとして故郷に喧伝されるに違いない。

太宰治「善蔵を思う」

 作中で「K町の辻馬」と言っているのは「金木町の津島(太宰の戸籍名)」のことで、「もう、いっぺん!」と声を上げたのが棟方志功です。つまり、自己紹介の時に酔いと緊張で上手く言葉が出なかった太宰に向けて志功が「もう、いっぺん!」と促し、逆上した太宰が「うるせえ、だまっとれ!」と言い返したというのです。これは気まずい。

 この日の太宰は相当に気負っていたようで、美知子夫人も太宰の死後に刊行した『回想の太宰治』の中でこの日のことを書いています。

 青森県出身在京芸術家の会に出席したときは、ザンザン降りの中を人力車で帰宅して、失敗談を語った。出席する前から、「郷里」にこだわり、「生家」にこだわり、心が波立っていた様子である。また太宰はほんとは「若様」のように、つききりで、みなりのこと、往復の乗り物のこと、一切世話してくれるお伴がほしいのだが、子供でも、老大家でもないから、ひとりで外出しなければならないのが不満らしかった。

津島美知子『回想の太宰治』

 志功はこの時のことをどのように受け止めているのでしょうか。昭和三十九年(1946年)に刊行した自伝『板極道』で、この時のことを書いています。

 太宰氏とは同郷でありましたけれども、はじめのころは会ってもことばを交わした覚えはありませんでした。一度ぐろりあ・そさえての創刊祝賀会で、自己紹介の時、あまり声が低かったので、わたくしに聞えませんでしたから、「今の方、もう一度、高くいってください」といいましたが、その、もう一度はいわなかったようでした。その、もの思う節を思わせるようなニヤニヤ感のつよい、青っぽい風貌が、なんとなくわたくしの肌合と合わなかったからでもあったようでした。太宰氏もやはり、わたくしを好かない人間と思ったことでしょう。

棟方志功『板極道』

 青森県出身在京藝術家座談会がぐろりあ・そさえての創刊祝賀会になっているものの、「善蔵を思う」で書かれたようなことがあったことと、その時の太宰の印象を覚えているようです。当然ですが、良い印象ではなさそうですね。

 『板極道』では冒頭で紹介した太宰の随筆「青森」で志功の初期の洋画に感心して購入した話についても触れていて、これについては素直に太宰の評価と行動に感謝しています。

 この随筆は「月刊東奥」の昭和十六年版に載っているそうです。いまでいえば青森の高校生でありました氏が、吊鐘マントの下駄ばき姿で絵を買い、「おどさ」に自慢するようすが目に見えるようです。わたくしは今、この氏の気持を、有難く、しみじみしたこころ持ちで感謝しております。太宰氏のやさしい想いの貴さに伏したくなります。

棟方志功『板極道』

 「青森」が発表されたのは昭和十六年(1941年)一月で、「善蔵を思う」が発表されたのは昭和十五年(1940年)四月です。考えてみると「青森」は「善蔵を思う」で悪しざまに書いてしまった志功へのフォローのようにも読めます。

 棟方志功氏の姿は、東京で時折、見かけますが、あんまり颯爽さっそうと歩いているので、私はいつでも知らぬ振りをしています。けれども、あの頃の志功氏の画は、なかなか佳かったと思っています。もう、二十年ちかく昔の話になりました。豊田様のお家の、あの画が、もっと、うんと、高くなってくれたらいいと思って居ります。

太宰治「青森」

 しかしそう考えると、「あんまり颯爽さっそうと歩いているので、私はいつでも知らぬ振りをしています」「あの頃の志功氏の画は、なかなか佳かったと思っています」という部分には隠し切れない感情と皮肉が出てきていて、また味わい深いですね。

参考文献

青空文庫
山内祥史「太宰治の年譜」大修館書店
津島美知子「回想の太宰治」講談社文芸文庫
棟方志功「板極道」講談社文芸文庫

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