やっかいなナルシシズム:パワハラの記録

割引あり

Bさんにまつわる怖い話」「Mさんにまつわる怖い話」「Kさんにまつわる怖い話」の3つを書くことは、言葉と友だちになることがいまだできていないわたしからすると決していともたやすくという言葉とともに書き上げられたものではなかったけれども、それでも、これから書こうとしていることに比べたらまだ扱いやすい内容ではあったのだなと思う。いまから書く内容もわたしがまだ働いているN塾でわたしが経験した出来事であるという点においては、上記の3つとの違いはない。けれども、共通点にせよ差異にせよ、そんなものはいくらでも見つけうるものであるわけだから、違いはないと自分に言い聞かせたところで筆が進まないことには変わりない。
この「筆が進まない」という表現もなかなか曲者で、わたしとしてはとても書きたいという気持ちがあり、実際に立ち止まらないようにタイピングを続けている。けれども、それもいまだけの勢いというか、なにかを始めるときのある種の気楽さというか、そういうものによって支えられているだけであって、本当に書きたいこと、これから書こうとしている内容の本質に関わる部分、そういうものをいざ文字に起こそうという段階になったらどうなるかわかったものではない。そういう意味で、いまもこうして不毛な文字を重ねているだけなのではないかという不安が消えない。

わたしは先日パワハラを受けた。上司2人から。今回はそのことについて書きたいとは思っている。というより、書かないとおそらく日常生活に支障が出る。すでに出ている。少しでもこの過去にとらわれないために、パートナーとわたしからなるアジール(アサイラム)の外側に記録しておく必要があると思ったのだ。また、より正鵠を射るならば、わたしが本当に書いておきたいのはパワハラを受けたという事実ではない、おそらく。きっと、パワハラを受けるような状況になってまで上司たちに訴えたことが何一つ彼らの心に届かなかったという無力感について記録しておきたいのだと思う。
ということで、これはまず告発文ではない。よって事実はぼかされ、あいまいに記される部分が多々でてくると思う。また、一度ですべてを吐き出せるとも思っていない。かといって連続して書くつもりもいまのところない。次があるかどうかは、これから書いていかないとわからない。書いたあとで、書いたという事実がわたしの日常をどれだけサポートしてくれるかによる。なんて書くと量が多くなりそうな気配が漂ってくるけれど、それすらもわからない。この件について熟考すること自体がとても負荷のかかることなので、立ち止まらずに書ける範囲で終えようと思っている。


さて、まず大まかな道筋を最初に書いてしまう(最初と書いたけれど、それだけで終わってしまう可能性もある)。
N塾では、生徒さんのジェンダーを名前と見た目によって判断し、その上で女子を「さん付け」、男子を「くん付け」して呼ぶ講師がとても多い。判断基準が上記のようになることそれ自体はわたしは問題だと思っていない。問題は、わざわざ「さん/くん」で呼び分けていることだ。生徒さん同士のコミュニケーションまでをコントロールしようとは思わない。それはただの
暴力だ。けれども、講師が生徒さんたちをどう呼ぶかという点は生徒さんのジェンダーアイデンティティやアンコンシャスバイアスの形成に大きな影響を与えてしまうものだとわたしは思うため、大きな権力勾配がある中で影響を最小限にするべく、講師はジェンダーによって差異のない呼び方のルールを採用すべきだと思っている。言い換えると、生きているだけで、小学生の時点ですでに相当多くのジェンダーバイアスが形成されてしまっているため、講師はそれをなるべく助長しないようにすべきだと思っている。一言でいってしまえば、そこで形成されたジェンダーバイアスが性暴力やハラスメント引き起こしうるからだ。おおげさにいえば、というかわたしはおおげさだとはまったく思っていないけれど、これは人の生き死にに関わる大きな問題だと思っている。
もう一つ、N塾は来月から始まる合理的配慮の義務化に向けて何一つ準備をしていない、かなりの高確率で。N塾はわりと非定型発達の生徒さんがやってくるし、そのことを社員全員が知っている、わかっているにもかかわらずだ。
わたしは上記2つの問題点について、去年からN塾の実質的なトップである社員Yと、N塾の名前にもなっている、会長的な立ち位置にいるNに提案をしたことがある。呼称についてはジェンダーバイアスを助長させないためにジェンダーによる差異が発生しない呼び方をするように、合理的配慮については、全社をあげて最低限ある程度の研修を受けてもらったり課題図書を読んでもらうなどして知識を身につけておくように。ごくおおざっぱにいって、そのような提案をした。

けれども、YにもNにも、わたしの切迫感はおろか、それらの必要性についてもまるで理解してもらえなかった。いきなり「こうしてくださいね」と強気で提案したわけではない。探るような感じでやんわり提案していった。最大限の譲歩をした。もちろん、やんわり伝えるだけではそもそもなにも伝わらない可能性もあるため、やんわり入って、徐々にしっかりと伝えていった。けれど、まったく通じなかった。Yは40代前半、Nは70代くらいだと思われる。2人とも男性。わたしは絶望的な気分になった。そもそも提案するまでにも結構がまんをしていたため、徒労感はとても大きかった。

そこでわたしは、呼称については実力行使にでることにした。N塾で使っているチャットツールにて、全体に向けて呼称の統一を呼びかけてみたのだ。確認した学年は限定的だけれど、そもそも生徒さんの多くはジェンダーにかかわらず「さん付け」で呼んでほしいと思っている、「くん付け」で呼んでほしい生徒さんは1人もいなかったという情報と、わたしの意図をそえて。そうしたら、Nがいちゃもんをつけてきたのだ。わりと強い言葉を使って。
そこでわたしも応戦してしまった。わりと強い言葉を使い反論した。するとNはチャットではなく直接(Zoomで)話しましょうということで、わたしの気分をなだめようとしてきた。そして実際、わたしはなだめられたふりをした。ふりをしたというか、もうこの人にはなにを言ってもだめだなと思ったので、ただただ心を殺して話を聞いて終わらせた。その日は表向きそれで終わった。

それから1週間ほどたって、わたしは合理的配慮の件についてもできるかぎりのことをしようと思い、Yを含む社員たちに「おうちの人が、生徒さんが発達障害である旨をこちらに教えてくれている場合は、生徒さん自身に知らせているかどうかを面談のときに確認してほしい」というお願いをチャットで送った。基本的に生徒さんとしかコミュニケーションがとれないわたしたちバイトの講師にとって、生徒さんが自分のことを知っているかどうかでできることがかなり変わってくる。もしおうちの人が子どもにはまだ言いたくないと思っているのだとしたら、あなたにはこのような特性があるからそれに合わせてこのような学習方法で進めていきましょうといった提案はできない。しかし、生徒さんが親から知らされている場合は、上述のような提案ができる。指導方法の選択肢がかなり一気に広がる。
このわたしの提案に対し、Yはすんなり了承した。わたしは少しだけ不満が解消された。けれど、了承したかと思ったら、数時間後、わたしを含むバイト講師が(Zoomで)出勤する時間の20分ほど前になって、「仮に、生徒さんが知っているかどうかで対応がどのように変わるか」ということをわたしに聞いてきた。ここでわたしはキレてしまった。なぜか。
わたしが去年から徐々に合理的配慮の話をしていき、最終的にYもNもなにもしないという判断をしたわけだけれど、そのときに2人とも「そういうのはうちはわりとできているから」ということを言っていたのだ。詳細は書けないが、いくつかの具体例を出してそう言っていた。当時、ふざけるなとわたしは思ったが、そのときは黙っていた。けれど、今回はそうはいかなかった。「そういうのはわりとできているなら、専門資格ももっていない一講師に過ぎないわたしにそんなことを聞く必要はないのではないか」ということを少し強気な言葉で書いたのだ。その上で、もちろん対応にどのような変化が発生するかという具体例は3つほど挙げて書いた。

そうしたら、Yが始業ミーティングのときに、つまり事情をよく知らないほかの社員や講師も数多くいる中で、わたしに「あなたはおかしい!」といきなり怒鳴ったのだ。そのあとも一対一になり、「わたしは怒っています!」「あの書き方はどうなのか!」「『そういうのはわりとできているから』ということは言っていないです!」とわめき散らした。あまりの幼稚さに頭を抱えつつも、わたしはなんとか一つ一つ話そうとしたが、向こうがこちらの話をさえぎったり怒りつづけたりしていた。また、最初にYと一対一で話しているときに、わたしはYがミーティングの場でわたしを叱責したことはパワハラであると指摘した。するとYは「どうぞ好きなところに言ってください!」と怒鳴った。わたしもとうとう本当にブチギレてモニタをなぐった。それでもわたしの怒りは収まらずその直後に部屋のドアを蹴って穴を開けてしまった。落ちたモニタを広い、カメラもセットしなおしてなんとか話を再開した。が、わたしの言いたいことはまったく向こうに通じなかった。Nがチャットで反論していた。そしてYとわたしが話しているブレイクアウトルームに入ってきて、いきなりわたしを怒鳴った。そこで、呼称についての議論のときのわたしの言い方についても言ってきた。わたしは圧倒的な権力をもっている2人に同時に対応しなければならなかった。

まあ1人でも2人でもいいのだけれど、問題は彼らがわたしの書き方のことしか言ってこないことだった。授業が始まる時間になったのでわたしから切り上げ、授業後にまた時間をとってもらって1時間ほど話したが、結局彼らはわたしの言い方が気に入らないだけだった。わたしの言い方が攻撃的だと言っていた。しかもそれを全体チャットで言われたのが気に食わないらしかった。
要は、彼らはプライドが高く自己愛が強いという、どうしようもなくめんどうな人だった。少し探りを入れてみると、2人とも議論もけんかもろくにしたことがないとのことだった。だからわたしのちょっとした皮肉でかなりプライドを傷つけられたのだろう。その点だけ気にかかっているということだから、わたしはその点についてだけ謝った。わたしにとってはその点はどうでもよかったからだ。あまりにもばかばかしいことだったからだ。
わたしが言いたいことは、つまりは、呼称の件にしても合理的配慮の件にしても、生徒さんのことをもっと考えてくださいということだった。それなのに、彼らは徹頭徹尾、自分たちのことしか考えていなかった。N塾は生徒さん一人一人のことを考えているということを掲げているにもかかわらず、彼らは自分たちのことばかり言っていた。議論の最中もわたしは、彼らが自覚なく差別に加担してしまっているという旨のことまで言った。にもかかわらず、彼らはそこについてはなにも反論せず、わたしのチャットでの書き方についてだけ言った。こんなに狂ったことがあるだろうか。わたしは笑うしかなかった。激怒しながら、終始、苦笑の表情で応戦していた。
彼らはわたしの言葉が攻撃的だったという。しかし、わたしからしたらそもそも彼らがわたしの提案を断ったこと自体がマイノリティに対する攻撃であったため、なにをいまさらとわたしは思った。これまでずっと攻撃されてきて、挙句の果てに一方的に「わたしは怒っています!」と自分の気持ちを最優先した言葉をこちらの発言をさえぎってまでされたら、それはモニタの一つや二つくらいなぐる。彼らは、人をなめるのもいいかげんにしろと思ったのだろう。けれども、それはこちらのセリフだった。もちろん、わたしがその言葉を使う際の「人」とはわたしのことではない。いや、わたしも含まれているが、いうなれば、ジェンダーバイアスのせいで苦しんでいるすべての人、そして合理的配慮を受けられず、あるいは無理解な講師たちのせいで苦しんでいる生徒さんやおうちの方たちのことだ。その人たちのことを考慮せず、「うちはわりとできているから」と豪語することがどれだけ暴力的か、この議論におけるマジョリティ側である彼らには一切伝わらなかった。

わたしは翌日から仕事を休んだ。いまも休んでいる。有給も使い果たすべく申請した。仕事のモチベーションは急降下したままだ。生徒さんたちのことを思うと申し訳ない気持ちしかないが、まずは自分が死なないようにすることが先決だった。今後はどうしていくかわからない。ほかのことで食べていけるならすぐにそうする。実際、もう探しているし、このnoteの有料記事も売れたらいいなと思っている。わたしは精神障害者保健福祉手帳の2級をもっていて、できることに限りがある。けれど、わたしにはパートナーと生きていくという、この地獄のような社会における数少ない、しかし大きな希望があるため、生活費を稼ぐ必要がある。くじけるわけにはいかない。

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