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戦時のウクライナ、ひとり旅 1・夜行列車での出発

戦時中のウクライナへ向かうには、フライトは不可能だ。キーウ空港発着のフライトは飛んでいない。

オンライン記事の執筆が完了次第、ドイツ鉄道のサイトで購入したチケットでは、まずはハノーファー、そこで乗り換えてベルリンへ、さらに別便でポーランドの古都クラクフまで。そこからウクライナ国境手前のプシェミシルまでさらに電車で進み、そこからはいよいよウクライナ国鉄でキーウに向かう、つもりだった。

かつては信頼されていたドイツ鉄道が、ここ10年ほどだろうか、遅延やキャンセルが増えてしまった。鉄道会社では従業員のストライキや天災を責めているが、どうなのだろう。恐れていたとおり、ハノーファーには1時間半遅れ、乗り換えができないためベルリン着は3時間遅れ。本来であれば22時にはクラクフに到着予定だった。

あまりの遅れと増えた乗り換えで、またポーランドの長い週末とも重なったのだろうか、ようやく乗れた特急電車は満席だった。今度はヴロツワフで夜行に乗り換えたが、満席で横にすらなれず。ヨーロッパ旅行中なのだろうか、同じコンパートメントにはインド人らしき家族もいて、電車の旅を楽しむ子どもたちは賑やかで嬉そうだ。休めないため、「戦時中のウクライナに入国したら、、、」などと心配する心の余裕さえなかった。ウェハースチョコと温かいお茶が配られ、少しだけだがほっとする。
新月の夜の真っ暗な景色しか見えない車窓に映る自分の顔は、びっくりするぐらい疲れていた。

ポーランド南部のクラクフに着いたのは、早朝5:41だった。そこでYahoo!ジャパンの原稿確認の連絡をしばらく待ち、待ち、待ち、、、メールが来ていないということは、エディターによる最終確認終了、あとはアップロードということだろうと自己で判断し、次は10時発のプシェミシル行き乗車。

ウクライナ国境から10km手前のプシェミシルまで、約3時間をかけてポーランド国鉄は進む。小雨の中、柔らかな木々の緑色と菜の花の黄色、畑を横切る小川。わずかだが、景色に癒やされながらの電車旅。ただひたすら季節と景色をぼんやりと眺めながらの移動だった。
昼過ぎ、1860年に完成したという、ややくたびれ気味ではあるがそれでも美しい白亜のプシェミシル駅に到着。降り続く小雨のなか、城や丘が並ぶこの町をうろついて、ウクライナ行き発車までの時間をつぶす。

ロシア/ソ連により作られたウクライナ鉄道の線路は5フィート。ポーランドや西ヨーロッパからの鉄道は直接入ることはできず、このプシェミシル駅からは乗り換えが必須になる。そして、ここにはウクライナ難民たちのためのスペースもある。駅には広い待合室が用意され、そこにはほとんどが女性や子ども、わずかな男性(もちろん兵役の義務のない60代以上)も何人か。子ども連れのためのビーチベッドも並ぶ。ボランティアの窓口もあり、難民への対応をしている。ソーセージ入りのパンがこの人々には配られているし、女性向けには生理用品、赤ちゃん用のおむつも用意されている。
ウクライナの人たちはみな、大きなスーツケースを持っている。自国への一時帰国なのか、あるいは難民生活を終えるのだろうか。
窓口で購入したキーウ行き夜行の切符は、219ズウォティ、わずか50ユーロほどだ。

19時過ぎ。プシェミシル駅横の出国手続きの列。

20時過ぎに出発予定のウクライナ国鉄が駅に入線している。ウクライナの色、青と黄の車両だ。出国手続きを無事終えた人々が、重そうなスーツケースを引きながら乗車をしている。皆、同行者たちとおしゃべりをしているが、だれもが静かな印象だ。連れの犬も大人しく待っている。ロシアによる侵攻という事態になって以来すでに1年以上が経つ。まったく先が見えない状況のなか、ふるさとのウクライナに帰国できる喜びが彼らの不安な心に垣間見えている。

私が指定されたのは、4名用寝台車の下段。上段にはどこか個性的でおしりが敗れたレインスーツ姿のアイルランド人女性。2名だけの静かなコンパートメントだ。乗車した頃は、空にはまだわずかな青色が残っていたが、もう真っ暗だ。コンパートメントに備え付けのマットと枕を敷き、鉄道員が配ったシーツと枕カバーを整える。
小さなオレンジ色の電灯のみで室内灯が薄暗いのは、節電のためか、ロシアによる空爆のターゲットにならないようにするためか、はたまたどちらも理由なのか。

ここまでの移動や乗り換え、何時間もの待ち時間ですっかり疲れていた。
線路を進む列車のガタゴトする音以外あまりに静かで、戦争中の国に向かうというのに、あっという間に眠りについていた。ウクライナ入国も入国審査もぼんやりとしか思い出せない。

プシェミシル駅のプラットフォームに入線したウクライナ鉄道。
出国審査を終えた乗客たちが大きな荷物とともに乗車する。

ふっと目が冷めたとき、何時間か前までは空いていた隣の席には、30代くらいだろうか、まだ若い男性が眠っていた。あまりにも静かに着席したようで、全く気づかなかった。丸刈りの頭とわずかにしかめた眉、眠る人の顔を覗き見するようで悪いとは感じつつ、その寝顔をぼんやりと眺めてしまう。

朝、6時ころだろうか。夜明けが近づいていた。この男性は、薄明かりの中ゆっくりと静かに起き上がると、壁にかけた荷物からなにかを取り出し、脚に巻かれた包帯を解き、荷物から出した消毒液を使い始めた。彼の右脚は、膝から下が、失われていた。

「名前は、アレフ。脚は、ヘルソンで、、、」
共通の言葉のない私たち。彼から聴けたのは、わずかにその名前と戦傷の場所のみ。キエフ(以前の呼称)とチェルノブイリ以外のウクライナの地名を知らなかった私が、何度も軍事衝突が起こったことで初めてその名前を知ったヘルソンに出兵させられたのだろう。

疲れで戦地ウクライナへ向かっているという実感すらわく余裕がないままだったが、入国してすぐにこのアレフが隣席となった。
ようやく戦場に近づいていることを、このような場面で気付かされたのだのだった。

失われた脚の手当をするアレフ。松葉杖は座席の下にしまってあった。

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