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賛否中立論争

ネットで自由な発言が認められるにつれて、世界には暴露や炎上が圧倒的に増えてしまった。
たった24年しか生きていない私でさえも、この世界の異常な一面に違和感を抱くことはなく、もはや慣れてしまったようにさえも感じる。

私の大好きなアーティストが、罰ゲームの一環として「スマホを割る」という行為をSNSに投稿した。

そうすると、いつもは彼らに対してポジティブな内容ばかり投稿する人でさえ、「それはいけないよ」「やりすぎだよ」と彼らにマイナスの意見を投じた。

勿論、それに対して「マイナス意見を投じることはお門違いだ」「さすが、彼らは面白いことをしている」と、そういった意見だって存在する。

はたまた、賛も否も主張せず「中立」という新たなポジションを確立することで、「あなたたちとは違うんだ、そんな小さなことで論争するなんて馬鹿馬鹿しいよ」と、そんな立場の人だっている。

私はというと。
「分からない」が、率直な意見だった。

だって賛否も中立も、存在する判断基準で彼らをで評価することはそもそも正しいのだろうか。
今貴方が目にしたのは彼の全てではなくとも、彼らの一部じゃないか。
私達は彼らの本当の姿を愛しているつもりで、無意識のうちに虚像を創り上げていたのかもしれない。

むしろフォーカスを当てるべきは彼らのアクションではなくて、1つの行為に対して私達はどこまで想像力を持ち、考えることができるかということではないか。

私は賛否も中立もわからないけれども、
彼のその姿が自分で創造したアートに他の人の手が介在することを拒み、
不本意に完成に近づいたその虚像を拒み壊そうとする1つのアートのように感じた。

今回の行為自体を正当化するつもりも、否定する気も私には無い。
私はやっぱり彼らの嘘偽りのない姿の虜なのだ。

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