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私にとっての仕事とお金(6)

自分の仕事について振り返っている。

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大炎上したプロジェクトがようやく終わり、穏やかな日常が戻ってきた。そしてプロジェクトの終わりと共に、チームはまた解散した。

次の案件の話が来たのは2005年3月だった。私はあと3ヶ月で32歳という時だった。

1人で担当する案件にアサインされる


ある客先に常駐して、あるツールを保守してほしいという。保守とは、プログラムのメンテナンス(バグが見つかった場合の修正や、改善)をすることである。

その企業には既に私の会社から何十人も常駐していたが、この案件は1人で担当するということだった。

「1人で・・・。そんなことできるのかな?」

聞いた途端に不安が湧いてきた。

以前から書いているとおり、私はプログラミングが大の苦手だ。

ようやく1つ前のプロジェクトで「仲間と働く楽しさ」や「物事をやり遂げる喜び」を感じ、上司との信頼関係も初めて得て、孤独感からはだいぶ開放されてはいた。けれども、プログラミングに対する苦手意識はまったく変わらなかった。

それまで私は1つのチームでリーダーやサブリーダーの指示に従って動く、メンバーの一人にすぎなかった。いつもはっきり決められず、不安で、「どうすればいいですか?」と何かと指示を仰いでいた。

とにかく知らないことだらけの中で失敗したくない。だから行動する前に聞いてしまう。その結果、時に苦笑され、時にイライラもされていたのだろう。

そんな足を引っ張るだけの私が、たった一人で仕事できるのだろうか?

行先となる職場のリーダーや上司にそのことを打ち明けても「大丈夫、そんな大した業務内容ではないから」と言われた。

とりあえず不安な気持ちで新しい職場に出向いた。

それまで私は必要な時だけ客先に出向く請負案件が多かったのだが、今度は業務委託案件で、客先の会社にほぼ永続的に常駐することになった。(事務派遣と異なり、技術者の派遣は期限がない。業務委託なら尚更で、本人が望めば半永久的にいれたりするものである。)

元の担当者であった社員から引き継ぎを受けた。たしかに担当するツールはごく小さいなものだった。元々、その人がたった一人で、多忙な本来業務の片手間にメンテナンスしていたものだったからである。

だが実際に動かしてみると、使い勝手も良くないし、保守性も低かった。つまり、そのツールを使う理由が発生するたびに、プログラムを修正しなければならないものだった。


ツールの全面リニューアルを提案


担当社員がたった一人で作り、しかもその人自身が使って他人の目には触れないものだったから、それでも十分、事足りていたのである。
しかしそんな片手間仕事のわりには、かなり重要な用途、しかも商用のために頻繁に使用されるようなツールでもあった。

私は感じた問題点を細かく調査して表にまとめ、「いっそ全面的に作り直しませんか?」と、提案した。

この提案は顧客にとても喜んでもらえた。

自分の会社から来ているリーダーの1人には、「こんなツールに1カ月もかけて調査して、え?こんだけ?」とののしられたが、知ったことではない。だったら自分でやってみればいいのだ、まともな調査も提案もしたことないくせに。

その時の私は、顧客だけを向いていたと思う。

客先にキーパーソン的な若い男性がいて、その人に「SEという人に初めて会った気がします!」となぜか感動された。
「あはは、恐れ入ります」と私は苦笑いしていた。

実はかつてWebの案件で一緒になったYさんの話し方を真似しただけなのである。
Yさんはいつも、誰にでもわかるように話す、技術者では少し珍しいタイプだった。論理的だが難しいことは1つも言わない。声も明瞭で明るい空気感を常に醸し出す人だった。
顧客に話すときは、そんなYさんの真似しようと思っていた。提案が通ったのは、確実にこのモノマネのおかげである。

それにしても、なぜそんな提案をする度胸が突然出たのだろう。

黙って言われたとおりに、社員に代わってツールを細々と保守することもできた。それでも十分に役目は満たしていた。

私の中の何かが「否」と言ったのだろう。

それまで何年も色々なプロジェクトを経験した。最初のプロジェクトがダメになったり、夜中まで残されるようなプロジェクトに入ったり、無理難題を押し付ける担当に会ったり、作ったものがまったく違うとひっくり返ったりした。そのたびに右往左往して、病気にまでなった。

いつも渦中に巻き込まれながら、色んなシステムやツール、そしてプロジェクトのありさまを見てきた。

その経験から、「このままでは、このツールも、使う人も、全然イケてない!」と、衝動的に感じたのだと思う。

しかし、ここで大きな問題があった。


自分で作れないから他人を巻き込む


「抜本的に見直しましょう!」「いいですね!」みたいな展開になったものの、わたし自身にはそれを実現するスキルがないのである。

こんな感じがいいなと思っても、全体の設計などしたことがなかったし、ましてやプログラムが組めない。いや多少なりとも経験はあったから組めるかもしれない。でも恐ろしく時間がかかるだろうし、下手すると、今よりもっと良くないものが出来上がる可能性がある。

ふと職場を見回してみた。

自分の会社から来ている人たちは「管理のためだけ」にいるようなリーダーばかり。正直、ただ威張り散らしているだけで苦手だった。他に誰かいないだろうか?

そうすると、私たちの会社から再委託している別会社の人の中に、優秀な人たちがいた。

まずある会社の社長であるAさん。システム設計が得意で論理的な人である。その人は何がきっかけかは覚えていないが、ランチも一緒にするぐらい親しくなっていたので、「こんなふうに作ればいいんじゃないか?」と、設計のアイデアを出してもらった。業務中にも何度も相談に乗ってもらえた。

なるほど!と思ったものの、今度は、それを実現する(プログラミングする)人がいない。Aさんは自分の会社の経営と、担当するプロジェクトの運営で忙しい。

別の協力会社のMさんに目を留めた。

このMさんは技術レベルがものすごく高い人だった。「仕事ができる」にはいろんな人やタイプがいるけれど、彼はどちらかというと黙々と新しいテクノロジーを徹底的に追及したいというタイプだった。必要とあれば、英語ですらない言語(フランス語だったか?)のサイトまで翻訳して調べる人であった。
10あったら10か11は知らないと「知っている」と言わない人で、そのわりに彼が「あまり知らない」ということは普通の人の「良く知っている」に当たる、という具合である。

しかし物静かであまり話さない。毅然としたオーラが漂っている。

「彼は話す内容が難しすぎる」「人の言うことを聞かない」と、私の会社から来ているリーダーたちには若干煙たがられているようだった。

私はこの人を面白そうな人だと思った。
頭がいい人は面白いものだから。
リーダーたちが彼を遠ざけるのは、彼についていけないからである。
私は必死で彼について行ってみようと思った。


技術者Mさん


ちょこちょこその人を呼び出して何時間も話すようになった。話してみるとリーダーたちが言っているのは違うなあと思った。とてもユーモアがある人だし、皮肉の利いた面白いことを言う。毅然としているように見えるのも、技術者としての信念があるからだと思った。

リーダーたちはみすみす宝物に気づかず、いや気づいていても扱いかねて、放置していたのだった。

こうして作り手としてのMさんを巻き込み、わたしたちのプロジェクトは始まった。

彼があまり得意ではない「他人への説明」とか「調整」といった仕事は私が代わりにする。彼が試したい技術要件はすべて客に了解をもらうし、サーバーでも何でもお膳立てをする。(そういう意味では非常に鷹揚な顧客でもあった。)

それに、事前に関係者の了解を得ておかないと、土壇場でひっくり返ることもありえるのは、前の案件で身に染みていた。

一方で彼は、私ができないプログラミングや検証を進める。普通の人なら数日かかる作業も、なぜか数時間で終わってしまう。まるでそれは魔法のようだった。

Mさんがどう思っていたかはわからない。

私のことこそ「俺に無理難題を押し付けてくる嫌な人」と思っていたかもしれない。今思うと申し訳なかったなとも思うけれど、少しでも彼の中で一つのキャリアステップ、いやそこまで大層な事でなくても、ささやかな思い出ぐらいになっていたらうれしい。

Mさんの言葉を理解したくて、私もそれなりに勉強した。そもそも理解しなければ顧客に説明できないからだ。彼と一緒にやったことだけは、今でも少しは詳しい。


苦い昔の思い出


それまでも、私は他の人にプログラミングを依頼したことがある。

自己肯定感が最低で孤独を感じていた20代の頃だ。やりたくてやったわけではなく、仕事上のリーダーの指示だった。

たしかコーディングする人が足りなくて、仙台かどこかの支社から応援に来てもらったのだ。

その人に「こういうことをお願いしたいです」と説明して1カ月後に確認したら、全く違うものができてきたことがある。
私はその時呆れて、怒り、「あの人は使えません!全然人の言うことを聞いていないです。」と、後でリーダーに言った。

でもMさんと仕事をしてみて、ああ、あの若い時のわたしはアホだったなあ…と思った。

仙台からきた人をまるでモノか部品のように扱っていた。その人の考え方も、そこに至ったプロセスも、全然理解しようとしていなかった。人に頼むときは言葉を尽くして頼まないといけない。「いいからやって」なんて態度を取ると相手に伝わる、ということを。

Mさんを担ぎ出した私たちの案件は無事に成功した。

お客さんは喜んで、わたしたちペアに別のことも頼むようになった。どんどん手動でやっていたことが自動化され(それは手動でやっていた人たちを削減してしまうことになったのだが)、顧客満足度は上がっていった。

「プロジェクト管理はすべてあなたに任せたいです」

最初に私のことをSE認定した若い人がそう発言するようになった。私のプロジェクトが成功していったのは、この客先の男性とも心から信頼しあえる関係ができて、何かとバックアップしてくれたことも大きかった。


180度変わる評価と自分自身


私の管理する範囲はMさん1人から、1つのチームになり、最後には20人以上5~6チームぐらいに広がった。相対する部署や顧客も増えた。

正直最後のほうではMさんと二人でやっていたころの楽しさは薄れ、労務管理やトラブル対応に忙殺されることになる。

管理する対象はほとんどが自社の人ではなく、その分意識もバラバラで、コミュニケーションも取りづらかった。いつもいつも私がうまくやれるわけではなく、メンタルに問題を抱え休みがちだった女性で、一切口もきいてくれなくなった人さえいた。

客先が移転して勤務地も遠くなり、わたしは常に疲労困憊で、結局6カ月程休むことになった。都合8〜9年程はその会社にいたと思う。

一方でこの2005年の着任をきっかけに、自分のキャリアは180度、変わってしまった。

仕事に対する自分の姿勢も、周りの扱いも、評価も、何もかも。

技術者は結局、顧客が「あの人は素晴らしい」と言ってくれたことが上司の評価に直結する。上司が遠隔になり、直接仕事ぶりを見れない程、自然とそうなってしまうのだ。

相変わらず契約社員ではあったが、社員より高い給与のまま契約は更新されていった。

そして一番変わったのは私自身、特に「話し方」だったと思う。開発の仕事に入って以来、不安そうに話すクセがずっとついていた。わからない、だから決断も遅い。いや、人に聞かずに自分で決めたことは、多分1つもなかったはずだ。

でもいつの間にか、きっぱりと話をするようになった。自分で決める癖がついてしまったのである。

不思議なもので「会社や上司なんて関係ない、これは私の仕事だ」と思うと評価される。どこか恋愛に似ている気がする。

ぐずぐすとくすぶっていた昔を知る会社の人に、「え?リーダーなんてやっているの?信じられない」と言われたことがある。

それくらい別人になっていたのである。


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