文字を持たなかった昭和324 スイカ栽培(33)トンネルの解体

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べてきた。苗を植えてからひと月半ほども世話を焼いて収穫し農協に出荷する。露地もののスイカが出回るまでには出荷を終えてしまわないと、わざわざ「促成」栽培したスイカの商品価値がなくなる。もっとも夏の盛りを迎える頃は、並行する稲作では田の草取りも始まるので、タイミングもよかったのかもしれない。

 シーズンの終わりにあえて放置しておいたトンネルの中では、スイカの蔓が枯れ、始末しきれなかった出来の悪い、あるいは小さなスイカの実が半ば腐りかけて転がってた。開けっ放しのビニールシートを上空から見つけた鳥が、スイカの実をつついていることもあった。

 いよいよ、役目を終えたトンネルの「解体」だ。解体は組み立てをリバースする形で行ったのだろうと思うが、子供だった二三四(わたし)はその場にいた記憶がほとんどない。片づけるだけの比較的単純な作業である一方、解体後の資材の運搬など力仕事が多いので、スピードアップのためには子供の手伝いを求めなかったのかもしれないし、二三四自身が片づけ作業にあまり興味がなくて記憶にとどめていないのかもしれなかった。

 簡単に言えば、トンネルのビニールシートを押えてあった幅広のビニール紐を外し、ビニールシートをはぐったあと、支柱に使った竹を外していく。数か月固定されていた竹は力を入れないと抜けなかったから、ここは二夫(つぎお。父)の担当だった。あるいは、竹が抜きやすいよう、土がまだ湿っている雨の翌日あたりを狙ったかもしれない。

 トンネルを構成していた資材が都に除かれたら、畝に張った「マルチ」を剥いでいくのだが、その前にマルチの上に残されたスイカの蔓や実、抜き忘れた受粉の目印の竹などをすべて拾い集めなければならなかった。これは比較的軽作業なので、ミヨ子のほかに子供たちも手伝ったことを覚えている。軽作業とは言っても、何十メートルもある畝が何十本もあるので、全部拾い終わるのはけっこうな作業ではあった。

 最後に、マルチシートを押えてあった土をどかししながらマルチを剥いでいく。数か月無機物に覆われていた土の上にも、小さな草が芽吹いていたり、そのままマルチの隙間から伸びようとしていたりと、生態系が作られていた。マルチを引っ張ると、生態系のメンバーだった蚯蚓がにょろにょろ現れて二三四は大きな声を上げ、ミヨ子から「蚯蚓は何もしないよ」と笑われた。

 片づけのためには何回にも分けて畑に出向いた。日中はもう炎天下の季節、長時間続けていては疲れが出やすいためだったかもしれない。


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