文字を持たなかった昭和315 スイカ栽培(24)収穫

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このところは昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べている。苗を植え受粉させ大きくしたい実以外は摘み取り、実が色よく均一に大きくなるよう向きを調整してやり中身の状態を推測しながらようやく収穫にこぎつける。

 収穫するとき、二夫(つぎお。父)たちは実を軽く叩いて、その音で熟れ具合や実の状態――中で割れていないか――などを確かめた。「ベンベン」と低く響くといい出来らしかった。ミヨ子はよく
「デッデッちゆうとはホタじゃっど*」
と話してくれた。

 収穫作業では、二三四(わたし)たち子どもの出番はほとんどなかった。大きく育ったスイカは重すぎて子供に運ばせるのはリスキーだったからだろう。長男の和明は二三四より3学年上で、小学校高学年頃には重いものを持てるくらいになってはいたが、そそっかしい性格なので、収穫したスイカを持たせるのに二夫たちは慎重だった。

 いきおい、スイカの実の摘み取りはミヨ子、摘んだ実を畦道に停めた耕運機に運ぶのは二夫の仕事になった。収穫は稲刈ほど時期が集中する作業ではなかったが、どうしても力仕事になるので、近所の農家に手伝いを頼むこともあった。スイカを作っている農家どうしなら、そのあたりは融通しあったし、スイカを作っていない農家の主婦ならなおさら声をかけやすかった。

 では子供たちはなんの出番もないかというと、そうでもない。スイカを蔓から切り離すと、実の下に敷いてあった「座布団」が残される。それを回収して回るのだ。

 収穫したスイカは耕運機の荷台に積み込んだ。揺れの大きい耕運機の荷台で大きなスイカを積み上げて運んで大丈夫だったのか? と今にして思うが、運転する二夫も、スピードを落としたり坂の上り下りは慎重にしたりしたのだろう。

 耕運機はそのまま農協の選果場に行くのではなく、いったん家に戻った。出荷まではもうひと手間かけなければならなかったからだ。

*鹿児島弁:デッデッと響くのは割れができているんだよ。

《「スイカ栽培」項の主な参考》
スイカの栽培方法・育て方のコツ | やまむファーム (ymmfarm.com)  

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