文字を持たなかった昭和297 スイカ栽培(6)トンネル①

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このところは、昭和40年代初に始めたスイカ栽培について書いており、前回は畝立てについて述べた。続いて、促成栽培のための屋根づくりだ。

 スイカ栽培の初期は露天とハウス栽培の中間のような方法で、「トンネル」と呼んでいた。インターネット上のスイカ栽培の解説にもトンネルを紹介しているものがあるから、いまでも使われているのだろう。ただ、ネットの解説はどちらかというと家庭菜園向けだ。専門、大規模にスイカを作る農家のほとんどは、人が入れる温室のような大型ビニールハウスを使っているのではないだろうか。

 トンネルは、畝に間隔を置いて並べた半円形の支柱の上からビニールを被せ、まさにトンネル状の長い覆いを作るものだ。ミヨ子たちのスイカ畑では、高さ60~70センチだっただろうか。もちろん人は入れない。作業するときはかがむか中腰になった。

 支柱は、ごく初期の頃は竹を割って作っていた、と記憶する。竹はミヨ子たちの家の周りにも、一部をミカン山にした山にもたくさん生えていたし成長も速いから、いちばん入手しやすくかつ費用のかからない資材だった。長い竹を適当な長さに切り、鉈を入れて幅3~4センチくらいに割る。ミヨ子の舅の吉太郎(祖父)は草履も編めるほど竹は身近な素材だったから、その息子である夫の二夫(つぎお。父)も竹の扱いは手慣れたものだった。

 もっとも昔の農家は、鍬や鎌の先といった金物以外、耕作に必要な道具のほとんどを身近な材料で手作りしていた。鍬の柄もすり減ってきたら手頃な木を削って、器用に付け替えていた。

 竹を割ったら、まだ弾力があるうちに畝に組んでいく。畝の通路にだいたい必要な本数の竹を適宜置いておいてから、平たく割った細長い竹を1本ずつ取り、一端を畝と通路の際(きわ)に差し込む。栽培期間中ずっと使うものなので、しっかり差して固定しなければならないから、これは男手、つまり二夫の仕事だ。これを、等間隔――1メートル弱だろうか――を置きながら、畝の端からもう一方の端まで繰り返す。

 ミヨ子の出番は、竹をまとめて通路に置いておくことぐらいだったが、まだ水分が残っている青い竹はまとまるとけっこうな重さだった。

 竹の表面はトンネルの表側で、畝の片側すべてに竹を差し込み終えると、たくさんの竹が思い思いの弧を描きながらゆらゆらと撓っていた。その光景を二三四(わたし)はなぜかはっきりと覚えている。いろんな竹を自分たちで割って作った支柱の仕上がりは、当然均一ではない。地面に差し込む角度も微妙に違っていただろう。壮観でありながら手作り感があるところが、印象深かったのかもしれない。

《主な参考》
スイカの栽培方法・育て方のコツ | やまむファーム (ymmfarm.com)  

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