文字を持たなかった昭和296 スイカ栽培(5)畝

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このところは、昭和40年代初に始めたスイカ栽培について書いており、前回は畑を耕すなどの土つくりについて述べた。その続きの畝づくりである。

 土を耕してからすぐでいいのか、しばらく日にちを置くのか、子供だった二三四(わたし)は知らなかったし当時を確認しようもないが、土ができたら次は畝を作った。――と思う。

 通路と排水溝を兼ねる40センチ幅くらいの溝を作りながら、畝を少し高く整えていく。畝は幅1メートル弱くらいあった。なにか道具を使って幅や長さを決めるわけでもないのに、二夫(つぎお。父)が鍬を使って作る畝は、幅が均等で、遠くまでまっすぐで、きれいだった。広い幅の畝を整えるのは力仕事なので二夫が一人でやっていたが、ミヨ子も溝を掘る加勢はしたかもしれない。

 畝ができたら、表面を「マルチ」と呼ぶ黒いポリフィルムで覆った。それまでの畑なら、保温や泥はねよけのために畝を覆うのは藁が定番だったので、化学製品を、しかも広範囲の作業に大量に使うのは、二夫たちにとって初めての経験だったはずだ。

 マルチは反物のように巻かれていた。畝の端っこに置いて反対側の端っこまで広げていく。広げながら、風で飛んだりしないように、ところどころに土を乗せて固定する。この「仮置き」のような作業は、ミヨ子がやった。ひとつの畝全体に広げたら、二夫とミヨ子の二人でマルチの両脇を畝の端に埋めてしっかり固定していく。そしてこの作業を、すべての畝で繰り返す。

 広い範囲の畝に、短時間でマルチを敷いてしまいたいときは、近所の農家の手伝いを頼んだ。スイカ栽培、とくに初期は、ミカンと違って誰でも取り組んでいたわけではないので、手伝いは頼みやすかった。

 ――というのは、二三四の記憶にある「完成形」の畑を、リバースして分解しながら、半ば想像したものだ。ただマルチは栽培の途中で敷き直すこともあったし、その後ほかの農作物でも使うようになったから、以上の描写はそれほど外れていないと思う。

《主な参考》
スイカの栽培方法・育て方のコツ | やまむファーム (ymmfarm.com)  

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