文字を持たなかった昭和 百九十九(秋の遠足、その四――パン工場見学)

 昭和40年代前半。鹿児島の小さな町の幼稚園の、秋の遠足を続ける。

 目的地の動物園で母ミヨ子と二三四(わたし)は、手作りのお弁当を食べた。午後少したってから集合して、帰り路にパン工場を見学した。

 鹿児島市内から国道3号線を北上し(つまり帰り路の途中)、鹿児島市の外れから郡部に入る手前くらいのところにパン工場はあった。「池田パン」という鹿児島では最もメジャー――というより多分パン製造業者としては唯一の――パン会社の工場である。

 園児を乗せた何台もの大型バスが工場に横づけされ、お母さんに手を引かれた園児たちが次々と下車した。工場内部の見学はクラスごとにまとまって案内された(と思う)。

 「池田パン」は県民なら知らない人はいない有名企業で――当時は「企業」とは呼んでいなかったが――急速に普及したテレビと消費を促すコマーシャルの影響で、子供たちは鹿児島にはまだひとつしかなかった民放局から流れる池田パンのCMと、その軽快な歌は誰もが知っていた。テレビが歌うパンの工場に行けるとあって、子供たちはみなわくわくしていた。

 工場の中は広くて、天井が高くて、きれいだった。絶え間なく動く大きな機械の真ん中にベルトコンベアーがあり、その上を焼き上がったパンが流れてきて流れて行き、ものすごい速さで袋詰めされて出てくるのが印象的だった。100人前後の幼稚園児と、それに同行する母親たちを相手に、パンの製造過程を逐一説明したわけでもなかったはずで、おそらく袋詰めのプロセスを中心に見せたのだと思う。でも、それだけでも小さかった二三四には十分刺激的で、パンへのあこがれが否応なく膨らんだ。

 見学後、ひとりにひとつずつパンをもらった。そんな立派な「おみやげ」をもらえるとは思っていなかったので、二三四の感激はいっそう高まった。ふだんから「マッちゃんち」のような近所の小さな食品店でよく見かけるものの、いつも買ってもらえるわけではないパン。

 二三四の家は農家でお米を作っていて、食事といえば例外なく炊いたご飯で、パンをご飯にすることなどあり得なかった。パンは「お菓子」の部類で、おやつのとき兄ちゃんと半分ずつするのがせいぜいで、それさえ父の二夫(つぎお)は
「米を作る農家がパンを買って食べるのか」
と嫌な顔をした。だから、パンをまるまるひとつおみやげでもらえるなんて、天にも昇る気持ちだった。

 幼稚園児の手には余る大きさのパンを手にしてミヨ子を見上げると
「よかったね」
と微笑んでくれた。
「帰ったらなんなんさん(お仏壇)に上げないとね」
とも。

 二三四はにこにこして頷いた。帰りはもうバスに酔うことはなかった。

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