文字を持たなかった昭和 百九十八(秋の遠足、その三)

 昭和40年代前半、鹿児島の小さな町の幼稚園。秋のバス遠足で行った動物園の中で、お昼ご飯の時間がきた。

 お昼は12時をメドに自分たちで適当な場所を探して食べることになっていた。二三四(わたし)には、他のお友達とベンチやシートを共有した思い出がない。お友達を避けたわけではなく、大人数が集まって座れる場所が見つからなくて、母親と二人だけで食べたのだと思う。自由行動のため、めいめいが好きなルートで見学をしていたせいもある。

 動物園の一角の木陰の、少し平らになったところにビニールシートを広げて座った。仕出し弁当などを利用するようになり、それらを包む90センチ四方くらいのビニールシートが茣蓙代わりに重宝され始めた頃だった。茣蓙のようにかさばらず、新聞紙よりも軽い。ただ四隅を押えておかないとヒラヒラ舞い上がる点は注意が必要だった。

 ミヨ子と二三四はビニールシートを2枚敷いて、靴を脱いで座った。真中にお弁当と水筒を、端のほうにはカバンを置いた。

 二三四は、通園バッグを下げてふだん幼稚園に行くお弁当箱も持ってきていた。でも、中身は当然ふだんとは違った。

 遠足のこの日、母ミヨ子が早起きして作ったのはのり巻きだった。中に巻くのは卵焼き、ピンク色の魚でんぶ、ちょっとした緑の野菜――野菜が何だったか思い出せない。あるいは自家製の高菜漬だったかもしれない――を甘めの酢飯とのりで巻いてあった。二三四が起きたときはミヨ子が巻きすで巻いている最中で、もう何本かお皿の上に載せられていた。

 おかずはいらないといえばいらないのだが、油で炒めた赤いウィンナー、そしてゆで卵。のり巻きに卵焼きが入るので、卵のおかずはゆで卵なのだ。「お弁当にも栄養バランスと彩りを」などと言われるようになるのはまだだいぶ先で、この時代は「ふだんと違うごちそう」であることが優先した。二三四の小さいお弁当箱にはのり巻きだけが、きれいな切り口を上にして並んでいた。ミヨ子が別に用意したお弁当箱にミヨ子の分ののり巻きといっしょにおかずが入っていて、二人でつまんだ。

 ゆで卵は、食べるときに殻を剥いた。何もつけないで食べると喉につかえる気がするし、味もないので、塩を用意してあった。昭和40年代には「味の素」が家庭の食卓の必需品になっていたが、塩も「アジシオ」を振るのがちょっと進んだ食卓というイメージだった。遠足のゆで卵も、紙に包んだアジシオをつけて食べた(まだラップやアルミホイルといった小道具はない)。

 ミヨ子がきれいに剥いたゆで卵を二三四に手渡して「これを食べなさい」と言ったとき、強い風が吹いた。ビニールシートが、かばんを置いていなかった角からめくれて土埃が立ち、ゆで卵も少し汚れた。しかたなく卵を水筒の水で洗って食べた。当時、いろんな場所の舗装が完全ではなく、動物園の通路も土が剥き出しの場所があった。あの時の意地悪な風を、二三四はあとあとまで折に触れ思い出した。

 ミヨ子のお弁当箱には、赤い耳を残してウサギの形に切ったリンゴも入っていた。ご飯の最後に大切にリンゴを食べながら、母ちゃんはウサギを作るのが上手だなぁ、と二三四は思うのだった。

 飲み物は水筒に入った水。保温水筒ではないし、色も味も変わってしまうお茶を入れることはなかった。水も、ミヨ子たちはまだ手動ポンプでくみ上げた井戸水を飲んでいたから、「生水はよくない」と、水筒に入れるのは必ず湯冷ましだった。でも、一度沸かした水は心なしか甘い気がして、二三四はけっこう好きだった。

 いま考えれば質素とも工夫がないとも言えるお弁当だが、ふだん食べるものよりはるかに高価で、遠足のお弁当箱には非日常感が詰まっていた。

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