文字を持たなかった昭和286 ミカンからポンカンへ(8)ミカン山のその後

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにして、(1)(2)(3)
(4)(5)(6)(7)〈143〉と続け、世の中のポンカン(柑橘類)が生産過多になっていったこと、当時ミカンの山の倉庫で青カビに埋もれたポンカンを見たところまで書いた。

 具体的なタイミングは思い出せないが、昭和50年代に入ってからだろうか。二夫(つぎお。父)たちは売り物としてのポンカンやミカンは作らなくなった。(7)の最後に触れた、人手が足りなくなったことも関係していたと思う。二人の子供は大きくなったが、農業の手伝いの戦力になるどころか、学校の行事や部活で手伝いに割ける時間は減った。舅の吉太郎は昭和45(1970)年に亡くなり、姑のハルも80歳を越え、田畑に出ての農作業は難しくなっていた。

 いきおい、二夫とミヨ子だけでの作業になる。繁忙期には子供たちも駆り出し、近所の農家の手伝いを頼んだとしても、限界があったことは想像に難くない。ポンカンと前後して、ほかの果物の栽培を始めたことも負担になっていたと思う〈144〉。

 それでも、ミカン畑の中でも日当たりがよかったり農道から近くて手入れしやすい場所や、樹勢が良い木についてはがんばって続けていたが、年を追うごとに収量は減り、収穫した果実のできも、ピーク時に比べ目に見えて劣っていくのが、子どもの二三四(わたし)の目にも明らかだった。

「もうわが家で食べる分だけ穫れればいいかねぇ」
ミヨ子相手に二夫がそう呟くのを聞いた覚えがある。ミヨ子は、いつものように「そうですねぇ…」としか言わなかった。せいぜい中学生だった二三四はもちろん発言権はなかったが、重たい気持ちになった。

 そうして、家族がミカン山に入って作業する機会は徐々に減っていき、ある時期から誰も、まったくと言っていいほど、行かなくなった。他の農家と共同で使用する農道の整備や、電力会社がミカン山に立てた電柱のメンテナンスに関連する用事で――メンテナンス自体は電力会社がするのだが、周囲の木が繁って邪魔だから枝を切りたい、などで――どうしても行かなくてはならないときに、二夫が足を運ぶぐらいになった。

 二三四の場合中学時代のいつぞやに行ったのが最後だと思う。冬になって、よその農家が軽トラや耕運機にポンカンやミカンを積んで通り過ぎるのを見ると、うちのミカン山はどうなっているだろう、と考えたが、すぐ思考に蓋をした。子供が考えてもしかたがないし、なにより想像するのが怖かった。

 ミヨ子もたまに、そして後々まで、「山はどうなっているかねぇ」と呟くことがあった(わが家で「山」と言えばまずミカン山を指した)。そして決まって
「やんかぶって、わざえこち なっちょっじゃろねぇ*」
と悲し気に付け足した。「木が生い茂って、大変なことになっているだろうね」という趣旨である。

「一度いっしょに行ってみる?」
二三四が社会人になってだいぶ経った頃、帰省の折りに投げかけてみたこともあるが
「いや、残念な姿をわざわざ見に行きたくない」
と断られた。

 二三四は同じ思い半分、それでも見たい思い半分だったが「そもそも山に入る道だってもうほとんど手入れされてないと思うよ」と言われたら諦めざるを得なかった。最初の子の死産と引き換えに開墾したようなミカン山の「残念な姿」を、あえて見たくはないであろうことは、二三四にも想像できた。

 二三四はいまも時々、ミカン山はどうなっているだろうと考える。荒れ果てて、雑木が生い茂り、ミカンやポンカンの木はその中に埋もれているだろう。それでも、季節が来れば花をつけ実が生っている木がいくばくかはあるかもしれない。

 鬱蒼とした林の中にひっそりと灯るように実った黄色い果実。それが、祖父母から3代にわたった労働の結果で、世の中の流れの結末でもある。畢竟すべては自然に戻るのだ。と割り切るには、切なすぎる。

〈143〉前項までは「その一」のスタイルでカウントしていたが、本項から( )つき算用数字に改め、簡単なサブタイトルを追加する。「その一~七」のタイトルも順次修正していく予定。→4/12修正済み。
〈144〉昭和40年代には、二夫たちはスイカ栽培にも着手した。これについては改めて述べる。

*鹿児島弁。「やんかぶる」は、髪の毛などがぼうぼう、めちゃくちゃで手入れされていない状態。名詞形は「やんかぶい」、伸びっぱなしの髪やアフロヘアを指していう人もいる。髪の毛の表現の援用として、田畑、籔などにも使うことがある。
「わざえ」は「わざいか/わざえか/わっぜぇか/わっぜか」の短縮形、これらは「すごい、ものすごい、大変な」の意味で「すばらしい」に転用されることもある。「わざえこち」は「わざいか ことに」を縮めた形。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?