文字を持たなかった昭和285 ミカンからポンカンへ(7)生産過多

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにして、(1)背景から順に、収穫したあとの出荷のもようまで描写した(6)

 おそらく鹿児島県でミカン栽培を行っていた各地で、ミカンの後継の「高級フルーツ」として導入されたポンカンだったが、「高級」の位置にいられたのは最初の頃だけで、参入者が相次ぎ生産量=供給量が増えてくると価格が下がるのは、先発のミカンに限らずほかの作物と同じだった。

 ことに、経済成長と個人消費の拡大に伴い消費者の好みが多様化し、同時に――こう言っていいと思うが――工業製品の輸出と引き換えに、農産物の輸入、とりわけ米国からのそれが拡大するにつれ、日本の柑橘類の消費は伸び悩むようになった。

 ミヨ子たちが苦労して接ぎ木し懸命に育てたポンカンも、出荷先が徐々に狭まっていった。この時期はまだまだ農協経由の出荷で、農協が集荷したものを、農協が確保した販路に卸していくわけだが、農協の役員を務めるなどして、農協を通じ最新の農業政策に一定の知識を持っていた二夫(つぎお。父)は、ポンカンの先行きが明るくはないことを感じ取っていた。

 だから、というわけでもないだろうが、二夫はポンカン栽培に執着している印象ではなかった。

 二三四(わたし)にとって忘れられない光景がある。

 家族で開墾したミカン山には、いちいち運ぶのは面倒な道具や昼食用の簡単な炊事用品なども保管する倉庫があった。おそらく、としか言いようがないほど明確な記憶がないのだが、最初はちょっとした小屋程度だったものを、ミカン栽培が軌道に乗った頃に基礎をしっかり作った大きな倉庫に建て替えた。もちろん木造だが、いまでいうロフトのような構造があり、天井が高かった。そこに、運びきれないミカンやポンカンも一時的に貯蔵していた。

 だが、「ミカンの思い出」で触れたように、柑橘類は青カビが発生するとすぐに蔓延する。あるとき――小学校の高学年頃だったか、何かの作業を手伝いにミカン山の倉庫に入ったとき――、倉庫の中の大量のポンカンに青カビがはびこっていて、二三四は、ぞっとするような切ないような、得も言われぬ感情に襲われた。ぞっとしたのは、カビの海を目の前にした恐怖。切ないとは、あれだけのポンカンを出荷することがなかったことへの、後悔にも、譴責にも似た感情。

 もちろんそのときこんな風に分析したわけではない。ただただ、恐ろしく悲しかった。

 あのあとミカン山の倉庫に行きたくなくなった。あの大量のポンカンを、両親がどう処分したのかは知らない。そのときの二人の気持ちも、推し量りようがない。

 その一件が起きて数年後には家族構成にも変化が生じ――ありていに言えば人手が足りなくなり――、ミヨ子たちの農業経営は徐々に苦しくなっていった。

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