文字を持たなかった昭和283 ミカンからポンカンへ(5)収穫

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代初め頃価格が下がったミカンに代え、接ぎ木してポンカン栽培に切り替えた状況について述べることにして、(1)背景から(4)接ぎ木まで続けてきた。

 ミカンの木にポンカンを接ぎ木したところまで書いたので、順番から言えば、接ぎ木後の成長の様子や手入れ、その折々のミヨ子や夫の二夫(つぎお。父)の様子などを書きたいところだが、それらはほとんど記憶にない。子供たちが幼稚園や学校に行っている間に、黙々と作業していたのだろう。枝に接ぎ木してから出荷できるような実が生るまでに手入れするのは、さぞ大変だっただろうと思うばかりである。

 主な作業はほとんど二夫が受け持っただろうが、他の作物――米はもちろん、ポンカンに転換しなかった分のミカン、野菜など――の面倒も見ながらである。そして、これもできれば近いうちにいずれ書くが、昭和40年代の半ばにはスイカの栽培も始めており、いわゆる農業の多角化を進める中で、やるべきことはいくらでもあったはずだ。

 ミヨ子はそれら全部に「付き合わざるを得ない」立場で、田畑で二夫をたすけ、ときに未経験の作業を手伝ったりした。もちろん家のことや、老境に入った舅姑の世話をしつつ、である。子供たち二人も小学校の中学年くらいになれば、手伝いを頼めるぐらいになりつつはあったが、平日は戦力にならない。いきおいミヨ子の負担は増えた。

 ポンカンが実るようになると、ミカンより少し遅れる1月頃に収穫を迎えた。実を摘む鋏や、摘んだ実を入れる肩掛け式の袋など、収穫に使う道具はミカンで使うものをそのまま転用できるのはありがたかった〈142〉。

 ミカンより大ぶりの実を摘んで袋に入れると、袋はすぐにいっぱいになった。畑の通路に置いた「キャリ」と呼ぶプラスチックのカゴまで重い袋を下げていき、ポンカンをあける。ここまでは、ポンカンの収穫に駆り出された家族、ときに手伝いの近所の人を含む全員の仕事だ。キャリを抱えて、山の道路に停めた耕運機に積むのは、二夫や手伝いの男衆の仕事だった。

 ミカン山には運搬用のケーブルもなく――そんな便利なものを導入する発想も資本もなかった――、斜面ばかりの現場では、機動性の高い人力がいちばんの頼りだったのだ。

 二三四(わたし)たち子供も、収穫の時期の週末には二夫が運転する耕運機の荷台に乗ってミカン山へ行った。ミカン鋏と収穫袋を渡され摘み方の手ほどきを受けたあとは、一人前に近い戦力としてポンカンを摘み続けた。もっとも、言われたとおりに摘むするだけだし、段取りや片づけは大人たちがやってくれるので、収穫袋が重いこと以外はそれほど負担ではなかった。

 ポンカンはミカンより皮が厚いせいか皮に含まれる香油成分も多いようで、休憩のときにポンカンを剥いて食べると独特の香りが広がった。あるいは香油の成分そのものが違うのかもしれない。実を摘むときもうっかり鋏で皮を傷つけると、やはり香りが立つので、二三四は大人たちに気付かれるのではないかと冷や冷やしたものだ。

〈142〉ミカンの収穫については「二百十七(ミカンの収穫、その一)」「二百十八(ミカンの収穫、その二)」で述べた。


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