文字を持たなかった昭和440 おしゃれ(26) パーマ屋さん余話

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶりなどのふだん着に続き、カーディガンなどのよそ行き、着物浴衣などについて書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 おしゃれについて語るとき髪も欠かせないだろうと、ミヨ子の同級生が営むパーマ屋さん「エビス美容室」とそのエピソードについて振り返った。前項では、化学物質に敏感になったミヨ子のために、美容師さんがカラーリングを工夫してくれたことにも触れた。

 やがてあるとき――ミヨ子が70歳くらいになっていただろうか――二三四(わたし)が帰省したとき、美容院の話題になった。
「髪もそろそろ切らなくちゃ」
とミヨ子が言うので、
「エビスに行くの?」
と何気なく訊いたところ
「いや。もう〇〇ちゃん(同級生の美容師さん)はやらなくなってね……」

 ミヨ子によれば、閉店したエビス美容室の代わりに、親戚の奥さんが働いている美容院に行くようになったのだという。町民が「湊」と呼ぶ商業地区の国道沿いにその美容院はあった。

 ミヨ子のような運転免許証を持たない高齢の女性がお客さんに多いのだろう、この美容室では送迎サービスもやってくれるそうで、予約した日時に美容師さんが迎えに来て、終わったら家まで送ってくれるのだった。小さい町の小さなコミュニティならではで、その話を聞いて二三四はほっとしたものだ。

 やがて、夫に先立たれた80歳過ぎのミヨ子が、鹿児島市内に住む長男(兄)と同居するようになると、この美容院に通うことは物理的にかなわなくなった。以来、ミヨ子の髪は義姉が切ってくれている。二三四が帰省した折りに、リフレッシュを兼ねてこの美容院にミヨ子を連れていきカットしてもらったことが一度だけある。それが、ミヨ子の人生における美容院通いの最後の一回になってしまった。

 そうして外出のために髪の手入れをすること、髪の手入れのために出かけることがなくなっていく。町(自治体)が結婚50周年の夫婦を集めてお祝いしてくれたときは、グレイヘアにパーマをかけて出席した。それが作者のアイコン代わりにしている写真だ。

 女性に限らないだろうが、行きつけの美容院を持つこと、気心の知れた美容師さんに会って話すことは、人生の幅を広げ心の支えを持つことにつながる。ミヨ子の美容院通いの変遷を振り返って、そのことの意味を噛み締めている。


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