文字を持たなかった昭和428 おしゃれ(24) 続・パーマ屋さん

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 これまでは、ミヨ子の生い立ち、嫁ぎ先の農家(わたしの生家)での生活や農作業、たまに季節の行事などについて述べてきた。ここらで趣向を変えおしゃれをテーマにすることにして、モンペ姉さんかぶりなどのふだん着に続き、カーディガンなどのよそ行き、着物浴衣などについて書いた。概ね昭和40年代後半から50年代前半のことだ。

 おしゃれについて語るとき髪も欠かせないだろう、というのでミヨ子のヘアケアヘアスタイル、そしてミヨ子の同級生が営むパーマ屋さんについても振り返った。

 前項のパーマ屋さんで触れたとおり、ミヨ子が行きつけのエビス美容室は同級生が経営していた。そのせいかどうか、おまけなのかサンプルなのか、ミヨ子はよくヘアケア用品をもらって帰ってきていた。

 二三四(わたし)が子供のころいちばん多かったのはヘアクリームだ。髪に栄養を与えるためのものとして、ミヨ子が洗いたての髪につけていたことは「ヘアケア」で触れた。ただチューブ型の容器から出すとき
「気をつけないとたくさん出てくるのよね。出てきちゃった分は戻せないし、もったいないからと全部つけると、べたべたするのよ」
と言うことはあった。

 その他にも美容院ならではのヘアケア用品を持って帰ることがあったが、中には断り切れずに買ったものが含まれていたかもしれない。それでも「(同級生の)○○さんのおすすめだから」とうれしそうにしてはいた。

 その同級生からは、毎年美容室名義でミヨ子宛に年賀状が届いた。

 ミヨ子はほとんど文字を書かず、ことに手紙らしいものはハガキを含めまったくと言っていいほど書かなかった、ということは前に触れたことがある。もちろん年賀状も。交際関係は、舅・吉太郎の生前から夫の二夫(つぎお。父)が代表して、というかむしろ好んでやっていたから、年賀状も二夫名義で出すのがほとんどだった。ミヨ子には、二夫と連名の宛名になっているか、名前まで知らず「ご内儀」「奥様」と添えてあった。

 しかしエビス美容室からは、ミヨ子の名前を書いた年賀状が届いた。ほとんど唯一のミヨ子宛と言っていい。ある程度の年齢からは、毎年の元日には子供たちが年賀状をこたつの上に広げて、宛名別に分類する、という作業をしていた。ミヨ子はエビス美容室から届いた年賀状を眺めたあと、納戸の化粧品などが置いてある自分の小さなスペースにしまうのだった。

 年賀状分配(?)のときにちらっと盗み見るエビス美容室からのそれは、毎年同じようなデザインだったが、店主の名前が手書きで添えてあった。それは同級生への心遣いだったかもしれない。

 よく考えたら、ミヨ子と同じ昭和5年生まれの女性が美容師として自立したばかりでなく、自前の美容院を経営していたとはすごいことだ。そのすごさを、二三四はこの項を書くまで深く考えたことがなかった。ミヨ子と同じ時代に生まれ、戦中と戦後を生き抜いた美容師さんの来し方について、知る機会を作れなかったのは心残りだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?