文字を持たなかった昭和 四十八(桃の節句1)

 今日は4月3日。

 ミヨ子たちの地方では、いろいろな節句の行事を月遅れで行っていた〈59〉。明治より前は当然旧暦で行っていただろう。維新後に新暦が採用されても、季節に合わせる農作業は旧暦のほうが使いやすく、暦と農村の実生活に1カ月程度のタイムラグが生じてしまった。その矛盾に対して、まるまるひと月遅らせることで妥協点を見出したのではないだろうか。お盆に新盆と旧盆があるようなものだろう。

 だから、桃の節句は4月3日を目途に準備した。

 桃の節句を代表する菱餅は4月3日までに供えられるように搗いた。桃色の餅は食紅で色をつけるが、草餅の緑と風味を醸す蓬は、野原や川の土手へ摘みに行った。蓬は蒸かしてから、擂り鉢で細かく擂って、餅にきれいに混ざるよう準備しておいた。多めに取れたときは乾燥して保存した。

 もち米は家の田んぼで植えていたので、餅つきに合わせて精米しておき、当日の朝水に浸した。もち米は水を吸いやすいためあまり長く浸さない。年に数回の節句の支度は、保存のきく食品をまとめて作る機会でもある。餅はいく臼も搗くので、もち米の量も半端ではなかった。大きなタライとザルを使ってもち米を洗った。

 もち米を蒸かすのは蒸し器ではなかった。庭に竈をしつらえ、何升も炊ける大きな羽釜に湯を沸かし、湯気が立ってきたら、一辺が50センチもあるような蒸篭(せいろ)を3段くらい組んでもち米を蒸すのだ。蒸篭には米がつきにくい素材の大判のふきん(あれはどんな生地だったのだろう?)を敷いて、浸水したもち米をじかに入れて蒸す。台所での煮炊きにプロパンガスを使うようになってからでも、お正月も桃の節句も、もち米はこのやり方で蒸かした。

 蒸しあがるまでに次の段取りをする。ミヨ子の嫁ぎ先の搗き臼は、大きな石を削りくりぬいて作ってあった。臼は毎日使うものではないので、餅つきの前に重たい臼をきれいに洗うのは大変だった。土台になる切り株に石臼を乗せるのは夫である二夫(つぎお)の仕事だったが、見るからに重そうだった。搗きあがった餅を入れるためのもろぶた(*)をきれいに拭きあげ、中に餅取り粉(片栗粉)を撒いておくのも欠かせなかった。のちに子供が生まれてある程度の年齢になってからは、子供たちも手伝った。

 もち米が蒸しあがったら、蒸篭ひとつ分を臼にあける。男衆が杵を取り、コツコツと杵を上下させてもち米の米粒を潰していく。このプロセスがおざなりだと米粒が残ってしまい、あとでどんなに搗いてもなめらかな餅にならないのだ。仕上がりに米粒が残ってしまうと、みんなして「コツコツが足りなかったねぇ」「あばた面になったね」と言い合った。

 米粒があらかた潰れたら、いよいよ餅つきだ。手水を使って餅をひっくり返す役目は女性が多かった。搗く方と返す方の呼吸が合わないと、杵で臼の縁を搗いてしまったり、ひっくり返すのが間に合わなかったりする。下手をすると返す方の手を搗いてしまう。餅を返す以外にも技術がいる。手水の量が多すぎると餅がべっちゃりしておいしくなく、何よりきれいな形にならない。ミヨ子は手際よく餅を返した。(2へつづく)

〈59〉わたしがかなり大きくなるまで、少なくとも家単位で節句の用意をしていた昭和の終わりごろまで、この習慣は続いていたと思う。ここに書いた情景もほぼすべてわたしが見たものだ。
*鹿児島弁:むった。「むろぶた(室蓋)」が縮まったもの。「むろぶた」は、一般には「もろぶた」「麹蓋」と呼ばれることが多いようだ。

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