文字を持たなかった昭和 帰省余話21「ひもじかった」

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 ここしばらくは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごと――法要、郷里のホテルに1泊しての温泉入浴なんでもおいしく食べる様子カタカナはちゃんと読めている様子など――を「帰省余話」として書いてきた。

 前項では、昔の写真数枚をミヨ子さんに見せたとき、そのうちの1枚、わが家で飼っていた牛の写真に反応し、舅の吉太郎さんの思い出を語り始めたことを書いた。

 そのときだったと思うが、唐突に
「じいちゃんは厳しかったからねぇ。……いつもひもじかった*」
とぽつりと言ったのだ。

 吉太郎さんの倹約ぶりは以前簡単に触れたが(二十八(縁談先)など)、周囲の大人たちが思い出話、エピソードとして、孫のわたしにも折りにふれ話して聞かせてくれた。もちろんミヨ子さんも。嫁のミヨ子さんはまさに当事者であり、かつ舅は絶対的な立場なので、吉太郎さんが決めたこと、することに対してはしたがうしかなかったはずだ。

 では、舅が「厳しい」ことと「ひもじい」ことはどう繋がるのか。想像するしかないのだが、徒手空拳から一代で田畑や山、屋敷を買い広げた「やり手じいさん」の吉太郎さんは、お金の使い方に厳しかったことは疑いなく――その「傍証」となるエピソードは多数ある――、家族に対しても倹約を強く求めただろう。まして嫁であるミヨ子さんには「叱って」従わせるぐらいはしたのかもしれない。

 ただ、いちおうは戦後の嫁が「ひもじい」と感じるような(食)生活とはどういうものだったのか。これもあくまで想像だが、たとえば「そんなに食べるな」「そんな(ぜいたくな)物を作るな、買ってくるな」という指示をしていた、ということだろうか。吉太郎さんならあり得るかも、と思う反面、口数は少なかったから、あれこれ細かいことまで指図していたとも思えない。

 わたしの中で「もしかしたら」と思うことがひとつある。「ひもじかった」のは、ミヨ子さんの子供のころの原体験、強烈な記憶ではないか。そのことと、まだ若い嫁だった頃の記憶が混然としているのではないだろうか。そう考えた理由は、いずれ整理できたら書いてみたいと思う。

*鹿児島弁「ひだいかった」。「ひだいか」は「ひもじい」の意味。古語「ひだるし(饑るし)」が転じたものと思われる。鹿児島弁には古語や宮中の女房言葉が語源であるものが多い。「ひだるい」は徳島など西日本の一部の方言としても残っているらしい。


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