文字を持たなかった昭和(番外。とりあえずの訂正)

 母ミヨ子の誕生日に電話をかけ昔話をした際、この「文字を持たなかった昭和」ですでに書いた内容に、わたしの事実誤認があったことは「ひと休み(誕生日)」に補足しましたが、初めて知った事項も含め後日の参考としてメモしておきます。該当する本文は追って訂正します。

・ミヨ子の出生が出生届(戸籍記載)より1年早い昭和4(1929)年である点は確かなようだが、誕生日まではわからない(知らされせていないのか、聞いたが覚えていないのかは不明)。〈本文「ひと休み(戦前の出生届)」

・父直次のきょうだいには妹もおり、同じ町の別の集落に嫁いだ。直次の父(ミヨ子の祖父)の名前は與四郎(よしろう)。〈本文「四(誕生)」

・国民学校卒業後は高等小学校(2年制)へ進学、卒業後就職した。
〈就職先は小学校の「販売部」、校名は「山下小学校」だったと思う。町にあった呉服屋「白石呉服店」が学校の中に開いた店だと聞いた。「販売部」勤務期間は列車通勤をしていた。通勤に関する思い出はないが、下宿していたわけではないので通勤していたことになるだろう。空襲がひどくなったので家へ帰らされた。(本人談)〉〈本文「十七(就職)」

・戦時中、空襲のときは近所にあった防空壕に避難した。避難の際は、握り飯と梅干しを持って行った。防空壕は通路のようになっており、入り口の反対側から外に抜けられるようになっていた。

・佐賀の大和紡績には、先に「同級生たち」が働きに行き、ミヨ子はだいぶ遅れて行った。紡績工場では5年半か6年、けっこう長く働いた。ミヨ子が帰郷する頃には、同僚でもあった同級生たちはみんな先に帰って嫁に行ってしまっていた。(結核については聞けずじまい)〈本文「十九(終戦後)
)」


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