文字を持たなかった昭和 十九(終戦後)

 戦争激化の影響を受けて実家に帰ったミヨ子が、どんな状態で終戦を迎え、その直後をどう生きていたのか。戦後の食料難の時代は農家がもてはやされたらしいが、そのために人生が変わった例も数多いだろう(※27)。ある意味では、ミヨ子もその一人かもしれない。

 やがて産業が少しずつ回復していった。そうこうするうち、幼なじみの娘たちが、紡績工場で働きだした。と言っても近くに工場があったわけではない。佐賀にあった大和紡績(※28)である。そのうちミヨ子にも「行かないか」という声がかかった。「〇〇ちゃんが行っているなら」というのが動機になって、ミヨ子は生まれて初めて鹿児島から離れることになった。

 紡績工場での仕事は慣れるまで大変だったし、慣れてからも忙しかった。しかし、工場での仕事は郷里での農作業の負担や家事の煩雑さに比べたら格段に楽だった。重いものを持たなくていいし、決まった作業を繰り返すだけでよかったから。郷里の友だちといっしょに社員寮に住んで、三食が保証されて、お給料ももらえて、休みの日は一日ゆっくりできる。

 もちろんしっかり仕送りをしていたのでぜいたくはできなかったが、休みの日はちょっとした買い物をしたり、映画を観たりした。パーマもかけてみた。同じ年ごろの女子社員ばかりの職場は、これまで生きてきたどんな環境とも違って新鮮で楽しかった。後年、農家の主婦として多忙な日々を送る中で、ミヨ子が会社勤めの知り合いなどについて語るときの「会社」という単語に、羨むような響きがあったことが強く印象に残っている。ミヨ子にとっては、大和紡績での「会社勤め」の経験と印象がベースにあったことだろう。

 独身時代パーマをかけてカメラに微笑むミヨ子の写真がわたしの実家にあった。娘のわたしから見ても、かわいらしく美人だった(※29)。この人の未来が幸せでありますように、と祈りたくなる一枚だった。残念ながらその写真は、「四(誕生)」で書いた赤ん坊のころの写真同様なくなってしまい、あの美人はわたしの心の中にしかない。

※27 のちにミヨ子の夫となる男性(わたしの父)もその一人。父について書く機会で触れたい。
※28 現「ダイワボウ」
※29 結婚、出産を経て農家の主婦として地味に生きていたときでも、母ミヨ子は近隣のお母さんたちより明らかに美人で、娘のわたしにとって秘かな誇りだった。美人ぶりについてのエピソードはいずれ書くつもり。

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