文字を持たなかった昭和 十八(空襲、そして終戦)

 戦時中に国民学校を卒業したミヨ子は、縁あって鹿児島市内にある国民学校の購買部で働いていた。仕事は楽しくできれば長く働きたかったが、時局はそれを許さなかった。日本の軍事都市から始まり、やがて都市部を中心とする無差別爆撃に移行する米軍による空襲が、鹿児島にも及んできたのだ。

 総務省のサイトから引用すると、「鹿児島市が直接の攻撃目標となったのは、昭和20(1945)年3月18日から8月6日の計8回の空襲であるが、北部九州ほか、九州全域への攻撃のため、鹿児島市は米軍機の通過地点に当たり、機影を見ない日はほとんどないという状況であった。/また、特攻機が鹿児島から飛び立っており、特攻基地は鹿児島にしかなかったので、米軍の鹿児島に対する攻撃は他の地方都市と比較にならない激しさであった。/これらの空襲により、市内は焼け野原と化し、多数の死傷者を出した。」(※25)

 空襲の激化を受け、購買部での勤務は続けられなくなった。本人が申し出たのか、学校側から言われたのか。県内最大の人口集中地である鹿児島市内の学校では、県内の他地域への学童疎開も進められたようなので、学校(授業)そのものが継続できなくなったのかもしれない。

 昭和20年のいつごろかは確認していないが、ミヨ子は生まれ育った集落に帰り、再び母親たちの農作業や家事を手伝う生活に戻った。そしてそのまま8月15日を迎えた。(※26)

※25《出典》
総務省|一般戦災死没者の追悼|鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県) 
※26 空襲の影響、郷里に帰った時期から終戦前後まで、できるだけ聞いておきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?