文字を持たなかった昭和 二百五十(正月支度――餅つき)
令和4(2022)年の12月もあと3日と、押し迫ってきた。昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)たちは、新年の支度としてこの頃には一家総出で餅を搗いた。
ミヨ子の実家は同じ集落にあったので、実母のハツノが来て手伝うこともあった。手伝うというより、自分たちの分のもち米を持ち込んで、いっしょに搗いてもらっていたのかもしれない。いずれにしても餅つきは「一家総出」の大イベントだった。
餅つきについては以前、「四十八(桃の節句1)」「四十九(桃の節句2)」に詳述した。ヨモギや食紅で染めた餅がなくなるだけで、段取りや手順はほぼ同じだ。ただ桃の節句の餅とのいちばんの違いは鏡餅をこしらえる点だろう。
なにか謂れがあるのか、正月の餅つきではまず鏡餅からこしらえた。搗きあがった真っ白で熱々の餅を餅粉を振った「箕」に取り上げる。そこから、必要な数の鏡餅をそれぞれに相応しい大きさにちぎり、ちぎった部分が餅の下になるようだいたい丸める。ここまでスピード勝負の重要なプロセスなので、いつも姑のハルが仕切った。
鏡餅は何組も作るので、最初の搗きあがった分だけでは足りず、2臼目でも鏡餅をこしらえた。そのあとは「歯固め」と呼ばれる丸い餅を相当数。これも、臼から取り上げた餅を小さくちぎるのはハルだった。
鏡餅も歯固めも、ハルがだいたい形を作ったあとは他のメンバーが「室ぶた」に取って、それぞれ丸く形造った。鏡餅は大きいので室ぶたの上に載せた状態で両手で回しながら丸くする。歯固めは、左手に載せて右手で形を整えた。
最後は伸し餅だ。これはいったん箕に上げたあと室ぶたに直接置いて伸していく。室ぶた一枚分の餅が搗き上がればいいが、歯固めを取った残りだったりすると、室ぶたの隅まで届かない餅が流れたような形になるのは残念だった。
餅つきの最後は、わざと柔らかめに搗いた餅を手製のあんこに絡めて食べるか、丸めたばかりの歯固めを焼いて食べた。子供たちはあんこに絡めるほうを喜んだが、大人は焼いて醤油をつける食べ方を好んだ。
伸し餅は、切るタイミングが難しかった。1日置いてから切るのだが、餅が厚いとまだ固まっておらず、包丁にべた着いたし、あまり時間を置くと硬くて切りにくい。いずれにしても、きれいな長方形に切るのは難しく、ミヨ子は毎年苦戦していた。