文字を持たなかった昭和 二十七(縁談)

 母ミヨ子のストーリーに戻ろう。

 結核の療養を終えて実家に帰ったミヨ子は静養を続けていた。23歳、もう嫁に行ってもおかしくない年ごろなのを、両親が気にしたのか周りが放っておかなかったのか、縁談が持ち込まれた。同じ集落の二つ年上の青年だった。

 青年とは遠戚に当たり苗字も同じ、二人の家は歩いて10分もかからないくらいの距離にあったが、家族どうしの付き合いはほとんどなかった。加えて当時の鹿児島の農村、「男女七歳にして席を同じうせず」を地で行くような土地柄ということもあり、子供のころからいっしょに遊んだことはおろか、話をしたこともなかった。

 ミヨ子自身はこの青年に限らず異性への関心というほどのものはなかった。佐賀の紡績工場勤めの間は縁談など考える機会も暇もなかったし、戻ってからは結核を治すことが第一だった。しかし23歳は、当時の農村ではたしかに適齢期と言える。いや、ほんとうの年齢は戸籍よりひとつ多いから、じき適齢期を過ぎるくらいだ。年も年だし、信頼できる知り合いが間に立って持ってきてくれた話、両親がいいと言うなら結婚するのは当たり前だ、と思ったとしても不思議ではない。

 戦後教育にどっぷり漬かって育ったわたしは、自分の結婚なのに自分の意思で決めたんじゃないの? と思ったこともあったが、何事もまず周囲を立てて自分のことは後回しにするミヨ子の性格と生き方なら、結婚という一大事に自分の意思が介在しなかったとしても自然なことかもしれない、といまは思う。

 何より、当時の鹿児島の農村では、親や年長者の意向は絶対だったはずだ。地域で暮らすほとんどの人が代々の習慣や考え方を踏襲し、まずは親の意見、そして共同体の秩序を尊重していただろう。

 個人の自由が最大限尊重される社会に慣れきったわたしたちには、とても封建的に見える。しかしそれは、複数の世代、場合によっては複数の親族が同居して、限られた資源――いまふうに言えばリソース。物的にも経済的にも――を分け合い、縦の関係の中で生活も家業も力を寄せ合う暮しを、円滑に進めるための秩序であり智恵だった。子は親を優先し、親は子を頼り、きょうだいが助け合うことは当然の道徳であり、生活を守る手段でもあった。

 そこに「女には学問や自分の考えはいらない、父親や夫に従っていれば万事丸く収まる」という「智恵」が含まれていたことも、また事実だろうが。

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