文字を持たなかった明治―吉太郎76 ある娘

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ。しかし卒業も近い昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。吉太郎夫婦は跡継ぎの安否がわからないまま終戦を迎えたが、二夫は幸い復員、一家はもとの親子三人の暮らしに戻り、戦後の食糧増産時代農作業に励んだ。

 昭和25(1950)年吉太郎は70歳になり、跡取りに嫁を迎えてもらう時期が来ていた。若い男性が少なく縁談が持ち込まれる中で、妻のハル(祖母)は息子の嫁について自分なりの考えを持っていたが、二夫は二夫で好みのタイプがあるようだった。

 嫁取りが具体的に進まないこと数年、復員したときは20歳前だった二夫も20代半ばになり、さすがにもう観念させなければと吉太郎もハルも思っていた頃。

 同じ集落の遠縁の娘が、働きに出ていた佐賀の紡績工場から帰ってきた。結核を患ったせいだと言い、しばらく隣町の病院に入院していたが、その後は家で療養しながら畑の手伝いなどしている様子だ。数十戸しかない小さな集落、みんなが顔見知りで、それぞれの家の状況もよく知っている。そもそもその家も苗字は同じで、もとを辿れば同じ一族である。しかし娘の家は数世代前に分家し、吉太郎の世代になると行き来は少なくなっていた。

 吉太郎たちが田畑に出る際、集落の道で件(くだん)の娘とすれ違うこともあった。娘は控えめに会釈する程度で、自分から話しかけることはもちろん、ハルが声をかけても当り障りのない返事しかしなかった。愛想が悪いわけではないが、内気に見えた。

 娘の年が二夫より二つ下であることはとうに知っていた。嫁としてはちょうどいい年齢ではある。都会――佐賀の工場と言えば、吉太郎たちから見れば大都会に決まっていた――で何年も働いていたせいか、色白で、着ているものも心なしか垢抜けていた。整った顔だちなのに丸顔で小太りなせいか、親しみやすい雰囲気もあった。

 しかし、吉太郎夫婦、というよりハルの眼鏡に適っているとは言えなかった。

 ひとつは、娘の実家が裕福とは言えないことだった。長女で、当時では一般的とは言え下に4人のきょうだいがいる。下手をすれば、実家やきょうだいたちの面倒をしょい込むことになりかねない。

 娘自身がよそで働いている間に体を壊したことも気がかりだった。農家の嫁は見た目より丈夫がいちばん、それはハルに限らず農村のほぼすべての人びとの共通認識でもあった。戦後、ペニシリンの普及により結核は不治の病ではなくなるのだが、明治生まれのハルにとって結核は致命的な病気で「結核のせいでよそから帰された」という娘の経歴は、受け入れがたいものだった。

 そして何より、前項で述べたとおり、ハルには「この娘なら」という候補がいた。働き者で何につけ気が回り、吉太郎とも互角に渡り合えるくらい気丈なハルは、息子の嫁は自分が考える条件に見合った娘でなければ、と堅く心に決めていたのである。

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