文字を持たなかった明治―吉太郎72 昭和25年、70歳

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事してほしかったのに、高等小学校から農芸学校へと進んだ。昭和19(1944)年、卒業も近かった二夫は、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。吉太郎夫婦は跡継ぎの安否がわからないまま終戦を迎えた。戦後の食糧難時代、吉太郎たちが日々の農作業に精を出していた頃、二夫はひょっこり復員し、吉太郎一家はもとの親子三人の暮らしに戻った。

 前項で述べたとおり二夫は農芸学校には復学せず、家業の農業に専念する道を選んだ。どの家でも男手が不足する中、20歳前の若い働き手が無傷で復員してきたことを、周囲の人々は羨ましがった。そうでなくても、復員や引き上げで人口が増え、食料の需要に供給が追いつかなかったこの時代、食べ物を作る立場の人々はとても尊重された。農家や漁師などの基本の食糧や食品を作ったり獲ったりする仕事は、もてはやされすらした。

 もっとも、のちに二夫の妻となるミヨ子(母)に言わせれば「百姓(ひゃっしょ)がよかよか言われたた、戦争が終わって何年かの、ほんのいっとっじゃったでやねぇ」(百姓がちやほやされたのは、戦争が終わって何年かの、ほんの一時期のことだったからねぇ)。

 その「一時期」を、吉太郎もハルも二夫も、誇らしい気持ちで仕事に取り組んだ。食料の生産は国を支えている、まして熾烈な戦争を経て敗戦でずたずたになった社会と人々を力づけているという実感があった。作ったものはときに意外な価格で買い取られたりもした。農業もこれからは有望だと思うこともあった。

 人手が足りない分は近所の女手を借りたりしつつ、一家三人の農作業は日々続いた。大人に近づいた二夫が、とうに初老を迎えた両親を助けつつ働いた。若い二夫は、どんな重いものも、どんな長時間の作業もものともしなかった。

 とは言え、吉太郎が買い広げた田畑を三人で切り盛りするのは、手伝いをもらいながらではあってもやはり限界があった。

 日本全体では、終戦直後の混乱が収まり、世間の消費が基本の食料から少しずつだがぜいたく品にも向かい、食品以外の消費にも目が向くようになっていく。やがて昭和25(1950)年朝鮮戦争が勃発、日本の戦後復興に大きくギアが入った。景気が上向き、産業は工業生産へと傾いていく。

 この年吉太郎は満で70歳を迎えた。相変わらず元気で働き者ではあったが、いま(2020年代)の70歳とはまったく違い、長年の屋外労働の蓄積もあり、老人然とした風貌を湛えていた。明治22(1889)年生れ、吉太郎より9歳年下の妻のハル(祖母)も還暦を過ぎていた。

 この頃、日本人のだいたいの平均寿命は男性が60歳、女性が68歳なので、二人の「高齢度」がわかるだろう。もっとも男性のほうは、戦争での若年層の死亡が平均寿命を押し下げていたから、それを差し引くと、平均寿命は65歳程度ではないだろうか。いずれにしても、吉太郎夫婦は老人と言われる年齢になっていた。

 二夫に嫁をもらい、跡取りとしての基盤を固めてもらう時期が来ていた。

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