文字を持たなかった明治―吉太郎67 空襲そして敗戦

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしかったのに、高等小学校のみならず上級の農芸学校へ進んだ。昭和19(1944)年、あと1年足らずで農芸学校を卒業するはずの二夫は、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願した。吉太郎夫婦はもちろん受け入れがたかったが、秋ごろに二夫は入隊して行った。残された夫婦は働き手が減った分も農作業に精を出した

 やや遡って二夫の入隊前の前年4月、農芸学校には県立農村婦人指導者養成講習所が開設されている。「男手」が次々と徴兵される中、女性を産業の重要な担い手とすることは、国と社会全体にとって急務だった。それを考えれば、農業指導者として養成されていた二夫たち生徒も、男子は早晩徴兵される運命だったのかもしれない。

 だが戦局はさらに悪化し、残された「産業の担い手」たちも、それぞれに課せられた仕事に集中できる状況ではなくなりつつあった。

 8月12日。二夫が籍を置いている――置いていた、とすでに過去形だったかもしれない――農芸学校が米空軍の銃爆撃を受ける。これにより、学校の本館、男子寄宿舎とその付属施設が全焼した。残ったのは女子寄宿舎、加工場、講堂のみだった。

 これといった産業はなくて大きな工場もなく、当時目立つ建物と言えば学校と役場ぐらいの小さな町。県立の実業学校であることなど米軍にはとっくに調査ずみであったろうから、地域そして県の主要産業である農業の象徴で、その担い手を育てるこの学校に損害を与えることに、米軍はなんらかの意味を持たせたのかもしれない。一方で、ただたんに、この辺りでは珍しい目立つ建物を「狙った」だけなのかもしれないとも思う。

 いずれにしても、地域の人々が高等農林と呼ぶ重要な学校が、アメリカの飛行機から爆撃されて焼けたという事実は、地域の人々に大きな恐怖と不安を与えたはずだ。そして、

 8月15日、終戦。

 吉太郎夫婦など、集落の人々が終戦の詔勅をどんな状態で聞いたのか、孫娘の二三四(わたし)に語ったことはない。少なくとも吉太郎の家にラジオはなかっただろう。学校に通う児童や生徒は学校で、大人たちは役場などのラジオのある場所か、ラジオを所有する数少ない家々に集まる形で詔勅を聞いた、というか聞かされたことだろう。

 ラジオから、初めて耳にする天皇陛下の声が流れ、その場にいる者はみな低頭して聞き入った。しかし雑音が多くて聞き取りにくいし、文語で語られる内容はわかりづらい。吉太郎もハルも、その意味するところは俄かにはわからなかったはずだ。皆を集めた集落の世話役が、「要するに」と語り始めた。
「日本は戦争に負けた。この先いろいろ大変になるが、心をひとつにして耐えなさい、と陛下はおっしゃっている」。

《参考》鹿児島県立市来農芸高等学校>沿革



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