文字を持たなかった明治―吉太郎65 息子の入隊後

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしかったのに、高等小学校のみならず上級の農芸学校へ進んだ。二夫が農芸学校で学ぶ間に戦争が庶民の暮らしに及ぼす影響は深くなり、二夫たち少年の心情と将来にも大きな影響を与えつつあった。

 昭和19年、あと1年足らずで農芸学校を卒業するはずの二夫は、陸軍の少年飛行兵に自ら志願した。両親に黙っていたばかりか、願書の家長同意欄に勝手に署名捺印してまで。吉太郎夫婦はもちろん入隊を免除してほしかったが、なにぶん本人が志願したことであり、入隊の日取りまで通知して来られるともう逃げ場はなかった。そして秋頃に二夫は茨城の鉾田に赴いた。

 というところまでを前項で述べたのだが、最初の任地が鉾田であったという確証は、じつはない。二夫が後年「鉾田で訓練を受けたあといくつかの基地に赴いた」と述べていただけである。入隊後、そして戦地への出征については、いずれ二夫自身について述べるときに書くつもりであり、それまでに調べられることは調べておきたいとも思う。

 そうして、一人息子でかつ唯一の若年労働力でもあった二夫がいなくなり、吉太郎夫婦は耕作に苦労した。ただでさえどの家も若い男手は戦争に取られ、残されたのは年寄りと女子供だけだ。吉太郎も妻のハル(祖母)も年齢のわりには元気で働き者ではあったが、どちらも還暦前後、若者と同じように働けるわけではない。近隣の女手の助けを借りながら、なんとか耕作を続けた。

 やがて戦局の悪化は吉太郎のような庶民にも肌で感じられるようになってきた。空襲が始まったのである。

 鹿児島の場合、やはり鹿児島市をはじめとする都市部に始まり、軍用施設がある地域などが狙われた。吉太郎たちが住む農村が大規模に爆撃されることはまずなかったが、次の爆撃先に向けて飛行する敵機の姿もしばしば見かけるようになった。敵機はときに威嚇するかのような低空飛行もして見せた。

 年が明けて昭和20(1945)年。本来ならこの年の春、二夫は農芸学校を卒業するはずだった。入隊した二夫からはたまに便りは来るが、吉太郎はそもそも文字が読めず、妻のハル(祖母)がなんとか拾い読みしてくれても、いったいどこで何をしているのか皆目わからなかった。

 飛行機乗りになるということは特攻隊に入ることだろうと薄々予想してもおり、息子の命はお国に捧げたのだと半ば諦めてはいるものの、軍事郵便でハガキが来れば、少なくともハガキを書いたときはまだ元気だったのだと、安堵もした。

 それでもいつ戦争が終わるのか、終わったとしても二夫は戻ってくるのか、戻らなかった場合せっかく買い広げたこの田畑や山林をどうすればいいのか、吉太郎もハルも口に出せないまま考える日々が続いた。

 そんな中でも百姓仕事は季節に合わせて進む。冬の間の保存食作り――漬物を漬けたり、味噌を仕込んだり――はハルの仕事だが、冬でも育つ野菜などもできるだけたくさん植えた。温かくなり始めれば田んぼの準備が始まり、本格的に忙しくなった。二夫の安否と将来について思い悩んでばかりもいられず、二人は還暦前後の体に気合を入れつつ働いた。体を動かしていればもやもやはとりあえずどこかに行った。植えた野菜や麦、稲などは素直に大きくなってくれ、二夫の代わりに自分たちに報いてくれているような気持ちにもなった。〈277〉

〈277〉戦時下のこの地域の人々の暮らしについては、のちに二夫の妻となるミヨ子(母)の半生を記した「文字を持たなかった昭和」の「十五(戦時中)」でも述べている。

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