文字を持たなかった明治―吉太郎74 息子の縁談
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったのに、高等小学校から農芸学校へと進み、卒業も近かった昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊。吉太郎夫婦は跡継ぎの安否がわからないまま終戦を迎えたが、二夫は幸い復員し、一家はもとの親子三人の暮らしに戻った。
戦後の食糧難の時代農家はもてはやされ、吉太郎たちは農作業に励んだが、晩婚の吉太郎は昭和25(1950)年には70歳になり、二夫には嫁をもらい跡取りとしての基盤を固めてもらう時期が来ていた。当の二夫は近隣の青年たちとのつきあいを大事にし、地域の若手リーダーとしても一目置かれるようになっていたから、縁談には困らないように思われた。
そもそもこの時代、大方の若い男性は戦争に取られており、復員した者を足しても適齢期の女性の数とはアンバランスだった。さらには若い夫が戦死した女性がそこかしこにいた。
それに、吉太郎が若いころから苦労して田畑や土地を買い広げたおかげで、一家はある程度の資産家と見られていた。しかも二夫はきょうだいがおらず、その資産をいずれはまるまる受け継ぐ立場である。農家がもてはやされていた時代、土地付きの一人息子は「好条件」だった。
もちろん当時の女性にとって、嫁ぎ先の親の面倒を見るのは当然のこと。「親付き」を厭う女性は、とくに地方ではまずいなかっただろう。
そして、二夫自身そこそこの美男子だった。吉太郎にさほど似ているように見えないのは、吉太郎が働きづめで身なりにかまわず、すでに高齢で腰も曲がり加減だったからかもしれない。背はそれほど高くなかったが当時の体格で言えば普通だったし、軍隊帰りで日々農作業に励む体は無駄な肉がなく、がっしりしていた。老齢と言っていい両親を助けて田畑に出る姿は、誰の目にも好青年として映った。農業を専攻して学んでもおり、働く姿もきびきびしていた。
おまけに二夫は上級の学校にも通っており、頭脳明晰だとも思われていた。学業半ばで出征したのは戦争のせいで、家庭の事情や時勢から言っても、復学できなかったのはやむを得なかった、と誰もが考えた。
だから、それとなく、あるいははっきりと、縁談を持ちかける知り合いはたくさんいたことだろう。しかしそういうエピソードが掻き消えてしまうほど――つまり、そういった話は、孫娘の二三四(わたし)に伝わらないほど――、強力な「縁談推進者」がいた。
それは誰あろう、二夫の母親のハル(祖母)であった。
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