ミヨ子さん語録「換えぢょか」

  昭和中~後期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。たまに、ミヨ子さんの口癖や、折に触れて思い出す印象的な口ぶり、表現を「ミヨ子さん語録」として書いてきた〈220〉。本項もそのひとつ。

 鹿児島の実家を出てから、緑茶を日常的に飲む習慣から遠ざかってかれこれ40年くらい。その間に、最初は缶入りだった緑茶はすぐにペットボトル入りになり、いまではお茶といえば買うのがあたりまえになった。嗜好飲料の種類も増えた。個人的には昼ご飯のあとはコーヒーがほとんどで、夕食のときはたまにお酒、それ以外は罪滅ぼしのトクホ飲料だから、緑茶を飲む機会はとても少ない。

 それでも香典返しなど茶葉をいただく機会はあって、台所の引き出しには緑茶が入っている。あまり飲まないから数年前の製造ということもある。いずれにしても常備してある状態ではある。

 たまにおいしい和菓子などを買ったときはこの「常備茶」の出番だ。めったに飲まないから気合を入れて淹れる。いただきもののお茶は高級茶が多い。鹿児島県産なら知覧茶だ。お湯を少し冷まして、茶葉が十分開くのを待ってからお茶碗にそそぐ。緑が美しく、薫り高く、甘くてまろやかだ。日本人でよかったとも思う。

 そんなときに思い出すのが、ミヨ子さんがときどき使っていた「換えぢょか」だ。

 「ちょか」とは鹿児島弁で急須や土瓶、鉄瓶など、「つる(柄)」つきの液体を注ぐ道具・食器全般をいう。焼酎に詳しい人なら、「黒薩摩」と呼ぶ庶民用の薩摩焼の一種「黒ぢょか」をご存知かもしれない。黒薩摩のちょかだから黒ぢょかというわけだ。

 同じように急須は「茶ぢょか」なのだが、場面や文脈でなんの「ちょか」を指すのかはだいたい明らかなので、いちいち「〇ぢょか」と言わず「ちょか」だけですますことも多い。

 さて「換えぢょか」である。

 この場合の「ちょか」は茶ぢょか、つまり急須だ。「換え」といっても換えるのは急須ではなく、茶葉のほうだ。つまり、茶葉を換えてお茶を淹れること、あるいはそうやって淹れたお茶のことだ。

 なぜこれを思い出したかというと、前述したようなおいしいお茶でおいしい和菓子をいただこう、というときは、必ず新しい茶葉を使うからだ。もとよりほとんどお茶を淹れないから新しいも古いもないのだが、ともかく新しい。そしてつい「換えぢょかだなぁ」と思ってしまう。

 実家では朝起きたらまずお茶を淹れた。仏壇にお参りしないと一日が始まらないが、朝いちばんに仏壇にお参りする人は湯気の立つお茶を持って行く。当然お茶も淹れるのだ。これは、舅姑(祖父母)が健在のときは姑のハルさん、その後はミヨ子さんのこともあったが、夫の二夫さん(父)のこともあったし、子供だったわたしが買って出ることもあった。その急須のお茶を朝ごはんで飲み、ときには10時のお茶でも飲んだ。昼は換えたがそのまま夜までということもあったし、3時のお茶で一回換えることもあった。夜は、茶葉を換えたお茶だとカフェインが多すぎて眠れないことがあるので、ふつうは換えなかった。

 茶葉ひとつも無駄がないように使っていたわけだが、急な来客のときなどはミヨ子さんが「換えぢょかで出さんならね(茶葉を換えてお出ししないとね)」、わたしにその役を申し付けるときは「換えぢょかで出さんとね(茶葉を換えてお出ししなさいね)」と言っていた。

 まれに、夕方お茶がすっかり出がらしになっていて、晩ご飯のあとにどうしても茶葉を換えなければならないときもある。そんなお茶を飲んだ夜、ミヨ子さんはよく「換えぢょかじゃったで ゆ 寝いがならんがよ(茶葉を換えたお茶だったから、よく眠れないわ)」と言ったものだった。

<220>過去の語録には「芋でも何でも」、「ひえ」、「ちんた」、「銭じゃっど」、「空(から)飲み」、「汚れは噛み殺したりしない」、「ぎゅっ、ぎゅっ」、「上見て暮らすな、下見て暮らせ」がある。

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