文字を持たなかった昭和339 梅干し(11)保存、おまけ

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは保存食品として毎年手作りしていた梅干しをテーマに書いてきた。庭の梅の実下漬けしてから、赤紫蘇を加えて漬け込み、梅雨明けを待って土用干しし、甕に保存したあとは食べごろになるのを待って食べ始める。

 梅干しの保存について、ミヨ子たちにはいろいろなエピソードがある。

 前年の梅干しが長いこと残って表面が乾いてくると、梅干しが「塩を吹いた」。梅の中の塩分が結晶するのだ。白い結晶のときもあれば、紫蘇色のときもある。紫蘇色の結晶はなんともきれいでつい舐めたくなるのだが、当然かなりしょっぱい。そもそもほぼ塩分100%だ。古い梅干しがたくさん残っている甕の中では、とくに上のほうの梅干しが塩を吹いて固まることもあった。

 姑のハル(祖母)が亡くなったのは昭和53(1978)年の5月だったが、前年まではミヨ子といっしょに梅干しを漬けていた。亡くなった年は新しい梅干しから先に食べ、前年の梅干しをミヨ子は
「おばあちゃんがお漬けになった梅だから」*
と言って大切に食べた。

 大切にし過ぎて翌年、翌々年にもなり、塩の結晶が大きくなるのに反比例して実は縮んできた。風味も落ちてくる。そうなってからようやく手をつけたが、食卓に出すたびミヨ子は「これはおばあちゃんの梅だよ」と付け加えるのを忘れなかった。

 ミヨ子が最初の子を死産してしまったとき厳しいことを言ったように〈161〉、ハルは嫁のミヨ子に対してきついところが多々あったが、ミヨ子はいつもハルの言いつけに従っていた。それは嫁姑の力関係ゆえ、と娘の二三四(わたし)は単純に思っていた。しかしこうして振り返ってみると、姑だからと従っていた部分がもちろんあったとしても、ミヨ子自身ハルを敬い、慕っていたのかもしれないとも思う。

 ほかの食品や道具と同様に、梅干しもまたいろいろ意味で家族に寄り添ってくれていた。

*当時の鹿児島の農村では、家族であっても舅や姑などの年長者、妻の場合夫に対しては敬語を使うのが一般的だった。ミヨ子の鹿児島弁で言うと「ばあさんが漬けらった梅じゃっでねぇ」。「漬けらった」は「漬けやった」と言うことが多いが、ミヨ子は「や」が「ら」に転訛することがしばしばあった。
〈161〉ミヨ子が最初の子を死産した話は「四十四(初めての子供)」に書いた。

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